皇后

 

 

キリコが手紙を出したという。

外から来たあの医者に。

中身は熱烈な愛の告白で、赤い花が添えられていたと。

 

その話を聞いたときにまず感じたのは嫉妬だった。

そして相手が医者ならすぐに消える、という暗い喜び。

そんな世界に私は長年首まで浸かってきたものだから。

 

寝たきりでもう政治的影響力などなくなったというのに、いまだに様々なことが私の耳に入ってくる。

今までそれなりの努力をしてきた結果だ。

この国の政治はいまや爛熟状態で、相手を負かすためだけの論駁、駆け引きのための駆け引き、無意味な政治的配慮、賄賂など挙げれば枚挙に暇がない。

鎖国などをしていなければ、この国はこんなに閉鎖的に相手を探らなくても済んだのだろうか。

だが諸外国と渡り合っていけるだけの国力は、残念ながらこの国にはなかった。

外国の大資本が入ってくれば、この国の経済は破綻する。

自給自足の今の生活なら、贅沢はできなくても飢える国民だけはいない。

私はそのことを信じて外圧を撥ね退けてきた。

次代を担う息子は外圧をかわしながら、国内に産業を育てることで開国への準備を進めている。

彼の時代には開国せざるを得ないだろうから。

改革を進める彼が死んだら大変だからとその優秀な医師を息子に求めたのは私だというのに。

 

 

狡猾な女傑といわれた私も、かつては人を愛した時があった。

もしかしたら恋したのは彼にではなく、外の世界にだったのかもしれないけれど。

私はずっと外の世界を見たかった。

鎖国状態のこの国の、王宮に閉じ込められた私だったから。

相手は異国の迷い人だった。

一瞬のきらめきは深い情熱になったが、すぐに鎮火させられた。

あの時、私には意気地がなかった。

けれどほんのちょっと誰かが背を押してくれたら、何かが変わっていたのだろうか。

 

愚かしい感傷だと、自分でも分かっているけれど。

 

 

夜は長い。

特に私のように昼も夜もないものにとっては。

廊下を歩く音が聞こえる。

衛兵だろうか。

コツ、コツ、と規則的に響く靴音を聞きながら、私は過去に戻っていた。

 

「逃げよう。今夜は祭りだ。きっと今日なら逃げられる。僕は金持ちじゃないけれど、君一人なら養える」

窓を乗り越えて手を差し伸べた彼の手指は太く節くれだっていた。

その時初めて、彼と行くのは私もこういう指になることだと気がついた。

それでも彼の言葉に従おうとして窓から外を見た途端、体がすくんだ。

あんなに恋い焦がれていた外は暗く、闇は恐ろしいばかり。

おてんばだった私は子供のころ、こんな風に窓から出入りして遊んだものなのに、ドレスを着る年齢になってからはいつの間にかそんなことをしなくなっていた。

 

「さあ。早く」

地に根を張ってしまったような私に焦れて呼ぶ彼。

その彼の表情がゆがんだと同時に私の肩に人の手が乗った。

振り返った私の前には、婚約者候補の1人。

その中で一番さえない外見の人だった。

「彼女には無理だ。この人は王宮で輝く人だ。

あなたも無理はおやめなさい。私は彼のような輝きはないかもしれませんが、一緒に生活していくうちに美点が見つかるかもしれませんよ。そんな結婚は我慢なりませんか?」

ただ涙を流す私を見て、彼は

「さよなら」

とだけ言って闇に消えた。

 

あの人が去って、私はそのさえない人だった前王と結婚した。

彼は知り合ってみると尊敬できる人だったし、子宝にも恵まれた。

彼の具合が悪くなってからは私も少しずつ国政にかかわるようになり、日々は充実していた。

けれど彼が死病だとわかった時、招いた安楽死医はあの人にそっくりだった。

 

夫はすでに苦痛のせいで朧な意識しかなかった。

だがキリコが安楽死装置を調整するうちに苦痛の表情が消え、ふわりと目が開いた。

キリコを見た夫は一度目をつぶり、また開いて彼を見て

「最後にお前に会いたかった。あの手紙、お前だったのだろう」

と言い、私に手を伸ばして

「ありがとう」

とささやくと2度と目を開かなかった。

手紙はしばらく後、彼の机を整理していて見つけた。

内容はあの日、あの時間に私の部屋に来い、というもの。

確かにこの癖のある字は、あの人のものだった。

 

しばらくはあの人を恨めしく思った。

けれど長続きはしなかった。

私にその度胸がないとあの人にはわかっていたのだ。

それを悟らせてくれ、浮ついた心を静めてくれたからこそ、今の私があるのだ。

 

私は本格的に国政にかかわり、冷徹な決断を繰り返す日々を送るようになった。

そんな日々の中、彼は時たま招かれて来るようになった。

前王の安らかな最期が噂になったのだ。

鎖国だから、彼が来ればすぐにわかる。

来れば彼も必ず私に会いに来てくれた。

それが本当に嬉しかった。

晩年になって初恋に再会したようで。

年のせいで情熱とまでは行かなかったが、それゆえに淡いときめきは以前より輝きを増した。

 

彼が私をどう思っているかはわかっている。

年上の、母のような年齢の人。

とてもではないが恋愛の対象になるわけがない。

けれど私もそうとは限らない。

私にはそれをできる権力があったから。

そうでなくても、たとえばこの国の専属の安楽死医になれ、というのは私には愛人にするのと同じこと。

毎日のように彼を見、彼と話し、その姿を愛でることができるのだから。

 

何度言葉にしようとしたことか。

けれど私にはできなかった。

彼は風の匂いがしたから。

この人はきっとここにはいられない。

監視の多いこの国にいては、彼はきっと息が詰まってしまうだろう。

 

そんな私にとって、死病は喜びだった。

突然死でもなく老衰でもなく、最期の日を彼とともに過ごし、命を彼の手で終えることができる。

これこそ私がずっと望んできたことだ。

ゆっくり、だが確実に体が、意識が蝕まれるのを感じるのは恐ろしくもあるし、苦痛も強いが、最後の瞬間を想像するとなんともいえない幸福な気持ちになった。

きっと私は心地よく眠るように往けることだろう。

彼はきっと私の手を取り、あの声で何事かをささやいてくれる。

彼にとってはただのビジネスでもいい。

彼がこの国を出た瞬間に私を忘れたとしても、私にとってはそれが永遠になる。

 

ずっとそう思ってきた。

なのに、今彼はほかの男に心を奪われているというのか。

うわさを拾ってきた付き人を恨めしく思う。

今だけは彼の心を私が占めていると錯覚していたかったのに。

 

 

けれど長い夜が終わり、ぼんやりと朝の光を感じるようになると、私の心もまた変わった。

付き人にキリコを呼ぶよう、言いつける。

あの時どうしても踏み出せなかった私。

もし誰かが背を押してくれていれば、と思ったことが何度あったことだろう。

 

すぐに来た彼は寝不足で疲れた目をしていた。

いつものように丁寧に私を診察しながらも、ほかの事に心を奪われているのがわかる。

息子のオペは今日だ。

あの医師の命も風前の灯。

彼はそれを知っているのだ。

 

若い知り合いを持つといいことがある。

その人と一緒にもう一度若い日を歩むことができるのだ。

子育てをしている時、私はもう一度子供時代を楽しむことができた。

そして私は今、もう一度人生の岐路を選び直すことができる。

 

付き人に、しばらく私とキリコ、二人だけにするように命じて、彼と話した。

彼が取り乱してすがってくれたのが、嬉しかった。

けれどもやはり、この選択をして良かった、と思った。

本当はこれ、あなたが思うよりずっと私のための選択なのよ。

あなたの背を押すことで、私も私の背を押したかったの。

 

私は今度こそ窓の外に出て、外の世界を知る。

私の最後の日々は、あなたのことを思って過ごしましょう。

ずっと苦痛ばかりをたどっていた頭はなかなか回転してくれなかったけれど、思いついたことをいくつか付き人に命じる。

この策で少しは追っ手を混乱させることができるかもしれない。

 

そして、ね。

国王の意識が戻ったらお願いしたいことがあるの。

あなた、私がこれから言うことを書きとめて、国王の側近に渡すのですよ。

最優先だ、と言ってね。

 

 

激しい痛みに襲われた。

息も出来ない痛み。

自分が目を開いているのか閉じているのかもわからない。

けれど今、誰かが手を取ってくれるのを感じる。

苦痛の果ての、遠い向こうに誰かがいる。

 

『脱ぎ捨てるんだ。その苦痛を』

『ほら、殻を脱いで。あと少し』

手の、足の、体の。

どこか分からないどこかから飛び出した私は、誰だか分からない、でも懐かしい誰かといっしょになって融けていった。

 

 

 

123456HITを踏んでくださったキョーコ様のリクエストは、「『手紙』の前日譚か後日譚」でした。

とは言ってもこんな風にキリコもBJもまったく出てこない話でも良かったのか・・・

最後のあたりでご不快になった方はすみません。

キョーコ様、この度はリクエストをありがとうございました。