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カルテ

 

 

オペをした患者のことを思い出しながら、詳細なカルテを仕上げるのが、俺の昔からの習慣だ。

もちろんカルテを作れない事例もある。

事故に巻き込まれ、大量の患者をさばいた時などはオペした人数すら覚えていないこともあるし、秘密厳守の為記録を禁止されることもあるからだ。

それでも、匿名にしろ後日にしろ、思い出せる分は思い出して、文字にする。

成功したものも、失敗したものも。

そして差支えないものは鍵付の書庫にしまい、差支えるものは落ち葉と一緒に燃やしてしまう。

それでしまいだ。

頭から消す。

患者が再訪したり、似た症状のオペでもない限り、カルテを取り出すことはない。

でないと過去に押しつぶされて前に進めなくなってしまう。

俺は多分、普通の人間より多少起伏のある生活をしているから。

 

普段の俺は夢でも見ない限り過去を思い出さない。

俺は生きていくのに必要な最低限の家事をし、仕事道具と仕事場を神経質なほど手入れし、ピノコと暮らすようになってからはこっそり彼女のフォローをし、煙草を吸い、コーヒーを飲み、本を読む。

次の患者が来るまで。

今まで悔やんでも悔やみきれない患者は山といたが、カルテを書くことでそれを過去のことにしてきた。

俺の脳内にも過去を入れるファイルボックスがあるようで、いったん入れた記憶は関係ある事柄に触れない限り、そこから出ることはない。

いや、出さないようにしているのか。

 

だが、いったん患者が再訪すると、その患者に関するあらゆる記憶が押し寄せてくる。

鍵付書庫からカルテを引き出すまでもない。

脳内のファイルボックスから情報があふれ出てくるのだ。

オペの詳細だけではない。

その時の情景、空気、湿度から触感までも思い出す。

 

だから苦手な奴がいる。

 

たとえばドクターキリコ。

やつに関係するオペは忘れられないものばかりだ。

詳細なカルテを書いて、燃やす。

それでもふとした時にフラッシュバックする記憶をねじ伏せて雑多なオペをこなし、成功体験に安眠できるようになったころにまた出会う。

新たな患者に対している時には夢中だが、そのオペには必ず苦い後味が残り、カルテを書きながら以前の苦悩を思い出す。

俺なんて医者としてまだまだだ、と思い、こんな無茶なオペをするもんじゃない、と思うのに、奴の仕事をかっさらいたくなり、無用な苦悩を増やす。

あいつの親を助けたと思ったそばから亡くし、悪魔の所業のようなオペをし、奴の腹を掻っ捌いた。

あいつを見かけるとつい自分から寄ってしまう。

 

また過ちを犯すのか。

自嘲しながらも近づき、同じテーブルを囲んだ。

それがカルディオトキシンを巡る騒動の始まりだとも知らずに。

確かにこの騒動は俺が招いたようなものだ。

何しろ俺がいなければ奴は薬のことなど話さなかっただろうし、注意が俺にそれたからこそカバンを盗まれたのだろうから。

 

だが。

 

帰国してカルテを書く手は軽かった。

傍らには、唯一燃やさなかった奴をオペしたときのカルテ。

この中には患者だった奴の住所と電話番号が記録してある。

それを手帳に書き写した。

俺がカルテから抜き出す住所なんて、支払いがまだの督促ばかりだというのに。

 

カルテをしまい、それからいくつも印象的なオペをしても、奴のことは俺の脳内ファイルボックスにしまわれなかった。

都会に出て、こんな晴れた日には夜景がきれいだろうなと思う。

ビールを注ぎながら、俺も外では荷物に気を付けないと、と思う。

だが公衆電話を見て、あの時あいつはどこで電話したんだろう、どんなに息せき切って話したんだろうと思ったあたりであれ、と思った。

俺、過去を反芻しているじゃないか。

おかしいな、カルテに書いたらそれきりのはずなのだ。

特に悔いの残らなかったものは。

どんなに難しかったオペも、患者にたんまり礼金をもらったオペも、カルテに書いてしまえば思い出すこともなかったのに。

 

余りに暇な日、車から関東周辺の地図を運んで手帖を取り出し、奴の住所を確かめてみた。

へえ、こんな所に住んでいるんだ。

ここらへんなら土地勘があるな。

どんな家に住んでいるのか、機会があったら寄ってみるか。

なんて思いはしても、実行はしない。

する理由がない。

その時はそう思った。

 

死にたがりの自殺未遂者にいらだった時、奴のことを思い出した。

過去のカルテが脳内に広がる。

昔、出会ったころの奴なら、自殺志願のこの少年の依頼に即座に応じたことだろう。

だが自らのことを「医者の端くれ」と表現した今のあいつなら、俺とは異なるアプローチでこの少年を掬い上げるんじゃないだろうか。

もしそうなるなら、見てみたい。

 

最悪安楽死されても、本人は本望だろうしな。

 

唯の厄介払いのつもりが、少年は思った以上の働きをした。

なんと奴の安楽死装置を壊してしまったのだ。

損害賠償を訴えながら頭から湯気を出す男を見て、参ったなと思う。

少年の家は金持ちだというが、さすがに殺人マシーンの損害賠償に金を払ってはくれないだろう。

言っておくけど俺は払わない。

装置大破のあおりを受けてぼろぼろになった壁紙とかベッドの修理なら喜んで払ってやるが、あれは俺こそが壊してやりたいあんちくしょうだ。

 

さっさと少年を連れて帰るつもりだったが、ガキは思った以上に化けていた。

数日前は鼻持ちならないただの金持ちのお坊ちゃんだったのに、瀕死の少女を治してほしいと言う。

ほんの少しの希望しかなくても、自分の体の一部を差し出したいと言うのだ。

三度腎臓移植したのに駄目だったということはよほどの要因があるのだろうが、移植は俺の得意分野だ。

何しろ馬と人間の脳みそすら交換した経験がある。

お灸据えのために危険性をこれでもかとまくし立てたが、まかしとけ。

難しいオペほど、俺はハイになる。

 

オペを終えて患者を手塚病院に引き継いでもらい、肩の荷が下りた俺はドライブでもすることにした。

行先は東京都二十三区外れの住宅街にある、木の多い家だ。

たった二回しか通っていないのに、道を間違えることもない。

それを言うなら、初めての時から完璧だった。

一度地図で見ただけで、分かりにくい住宅地の中なのに。

 

「またお前か」

と嫌な顔をする男に

「もともとお前さんの患者だったんだから、オペの結果くらい聞きたいだろう?」

と家に転がっている酒を数本入れた袋を差し出すが

「ふん、その顔を見れば結果はわかるさ。尿毒症まで起こしていたってのに嫌味なもんだ。それで、あのむかつくガキの方はどうなったんだ」

と袋を受け取りもせずにそっぽをむくので

「それを話すために来たんだろ。つまみくらいだせよ」

とずかずか中に入ると、次の部屋は機械の部品で埋め尽くされていた。

部屋の隅にカップラーメンの空き容器がいくつか転がっている。

「つまみなんてない。しばらく買い物なんて行ってないからな。見ての通り俺は安楽死装置を作るのに忙しいんだ。どうせお前さんのことだ、壊れてザマーミロとか思っているんだろうが、こっちは本当に大迷惑だよ」

ぼやくキリコをよく見ると、無精ひげが生えていて、肌にハリがなかった。

本当にロクなものも食べずに根を詰めているんだろう。

「俺はこのままだと機械に埋もれて餓死するぞ。装置がなければ俺なんて商売あがったりだからな。熱中すると寝食忘れるたちだし、最前線で飢えの感覚おかしくなったことがあるから、もしかしたら何かぶり返すかもしれない。先生はこの落とし前をどうつけて下さるのかね」

作業場所らしき空間にしゃがみ込み、周囲の部品を取っては引っくり返す男は、だが俺が装置を弁償することなどありえない、と思い込んだ顔つきだった。

図星だが気に食わない。

 

「わかった、損害賠償をする。と言っても安楽死装置にはびた一文払う気はない。それ以外の生活費を持とう」

と言い放つ。

驚いたようにこちらを見るのを無視して

「さすがに知り合いが餓死するのは忍びないからな。人殺しを俺が殺すなんて願い下げだ。とりあえず食事行くぞ。着替えて来い。それ、機械油まみれだ」

しっしと手を払いながら言い募ると

「お前さん、本当に迷惑をかけたって気持ちがあるんだろうな」

とぶつぶつ言いながらも着替えに消えた。

駅に行く途中に定食屋を見つけたのでそこに入り、ついビールを飲んだので車を置いたまま電車で帰った。

電車だとそれなりに遠かった。

 

家に着いて、奴のカルテを作った。

あの空き容器はすべてカラカラに乾燥していた。

食堂もスーパーも十分も歩けばあるのに食べないなんて、奴の言う通り何か精神的な疾患があるのかもしれない。

無理やりのようにそう思ってカルテを作った。

 

それからちょくちょく奴の家に行った。

スーパーで適当な食料をかごに放り込み、あるいは家のそばの漁港で新鮮な魚をトロ箱に入れてもらい

「こんなのどうやって調理するんだ」

と奴が嘆くのを楽しんだ。

酒をたくさん持って行って、つぶれる姿を拝もうとしたら返り討ちにあった。

急な泊りでパンツを借りたら妙に布地が少なくて、ぴっちりしていた。

外人はけったいなものを履いているもんだ。

 

都内でオペがあった時には、高級食材と共に乗り込んで三日ほど家から通わせてもらった。

「俺の家はホテルじゃないんだがね」

と嫌そうな顔をしても追い出されることはなかったので、自分の家のように寛がせてもらった。

田舎からの依頼などでは患者や知り合いの家に落ち着くことも多い。

どこまで図々しくしてもいいかの限界は、体にしみこんでいる。

 

家に帰るとカルテを書いた。

目視で分かる限りの体調。

話したことと、それに対する反応。

気付いたことをあれこれ。

料理は出来るようだが魚のさばき方は知らない。

甘いものはおおむね苦手だが、冷えた水羊羹は食べる。

洋酒だけでなく日本酒もいける口だが、泡盛はだめらしい。

 

書かないが蓄積するものもあった。

皮肉な声。

激しい口論。

穏やかな語らい。

眠りにかかった俺にふわりとかかる毛布。

 

ある日行くと、いつもの作業部屋がきれいに片付いていた。

「できたのか」

とたずねると

「お陰様でな」

と答えられた。

 

これでしまいか。

「邪魔したな」

と帰ろうとしたが

「その袋、食糧なんだろ。置いていけ。ついでに食ってけ」

といつものように誘われた。

俺にもそれが自然に思えた。

 

「やっと仕事を再開できる。お前さんには剛腹だろうが、俺を必要とする人もいるからな。人間にはいろんな選択肢があった方がいい。俺もお前も選択肢の一つだ」

そうかもしれない、と思ったのは酒が進んでいたからか。

この間見たSLの夢のせいかもしれないし、昨晩見返したカルテのせいかもしれない。

 

あのカルテに外科手術に結びつきそうなものはなかった。

ただの観察日記だった。

こいつは俺の患者にはなりえないと痛感して、なのにそれを捨てることはできなかった。

たき火をするからと多くの書類を処分したのに。

 

「ふん、再開するのはお前さんの勝手だが、俺の患者に手を出したら承知しないぞ」

と言うと

「どんな口でそんなこと言うのかね。俺はお前さんの患者を横取りしたことなんか一度もないぞ。するのはお前の方だ」

と返され、ぐっと詰まる。

そうだ。邪魔するのは俺だ。

騒ぐのはいつも俺の方なのだ。

 

今まで俺を敵視する奴も、ライバル視する奴もたくさんいたが、人が何をしようが何を言おうが俺には関係ないことだった。

どんなに愚かしいと思っても他の医者が割り込んでくれば退いたし、患者に断られれば去った。

金の折り合いがつかなければ、歯牙にもかけなかった。

こいつと絡んだ時だけ無理やり割り込むのはなぜか。

 

「お前さんの噂はたくさん入ってくる。金にがめつくって、折り合いがつかなければどんな相手も突っぱねるって。オペと患者にしか興味がなくて、出不精だから携帯もないのに電話がつながる率が高いって。なのにこのところ留守電と留守番の子にしかつながらないって」

いつの間にか奴は席を立ち、俺の隣にいた。

「いい加減、聞かせてくれ。生鮮食品ばかり持って、三日と空けず来るのはなぜだ」

目の中を覗き込まれて腹を決めた。

傍らに投げ出された男の手に手の甲を触れ合わせる。

「お前さんこそ、いくら難しい装置だからって作るのに時間が掛かり過ぎじゃないのか。もう少しってところで分解して何度も組み直したりして」

覗き込み返すと、たった一つの灰色がかった目の中には俺だけが映されていた。

試しに指を動かすと奴の手も動き、お互いの手がしっかり絡まった。

俺が臆病者なら、こいつも大した臆病者だ。

 

家に帰ると、俺はキリコのカルテを鍵付書庫の中にしまった。

これからは多分、奴の名を聞いてフラッシュバックするのはカルテでなく、昨日の記憶になるのだろう。

またのた打ち回る思いをするかもしれないが、それは医者としての苦悩ではなく、一人の男としての羞恥や煩悶になるに違いない。

それは脳内のファイルにだけしまえばいいことだ。

 

 

 

アンソロジーに載せた話の没。