土砂降り のち
きよみという女が死んだ。
清水きよみ。離れ小島の校医兼医者。
俺はこの人の兄に義理があった。
以前飛行機中で緊急オペが必要になった時、メスをお借りしたのだ。
こういう時、無免許医は困る。
海外の航空会社ならそれなりに融通が利くが、国内線は日本医師会からでも通達が行っているらしく、俺はメスを座席に持ち込むことができない。
その時差し出された1本のメスが、俺にはどれだけありがたかったか。
だが礼をしに行った時には、彼は他界した後だった。
代わりに彼女と知り合ったのだ。
気の強い人だった。
メスを渡そうとしても、最初は頑として受け取らなかった。
その晩診察を手伝わないと言ったら恐ろしく怒っていた。
もしけが人が出ていなかったら、何事もなく別れていただろう人。
校長のオペの後、俺はこの人の好意を感じていた。
それに答える気がないのが後ろめたくて、目を合わせずにお茶漬けばかりを食べていた。
俺はわかる、孤独というのがどんなものか。
兄が死に、1人残されて孤島の医院を守る間、彼女はどんなに寂しく心細かったことだろう。
それでも生来の芯の強さで気丈に振舞ってきた彼女だが、俺が来てしまったことで張り詰めた気が緩んでしまった。
きっと俺に兄の影を見たのだろう。
そして彼女はその気持ちを恋と誤解してしまったのだ。
好意は重い。
興味のない人からの好意は、特に。
瀕死の彼女に私の皮膚を使って、と言われた時、その重さに足元がよろけた。
そのきれいな皮膚にメスを入れたくなかったのは事実。
病気でも怪我でもないのに他の医師に執刀されるのがいやだったのも事実。
(さすがに己の顔の植皮を自分では行えない)
色違いの皮膚を大事にしていたのも事実。
(ついでにその皮膚を新鮮なまま運べるか自信がなかったのも事実だ。何しろ船の便がなかなか復旧しなかったし)
だがそれを全部クリアしたとしても、俺は躊躇したことだろう。
彼女の皮膚をもらったら、朝起きて顔を洗い、鏡の中に美しい皮膚を見る度に、救えなかった彼女のことを思い出す。
それは苦いことだろう。
だがそんなことで躊躇したのではない。
故人の最期の願いだったのだから。
申し訳ないことだがそれを申し出られた時、俺のまぶたの裏を灰色の髪が通り抜けた。
大して手入れもされていない、その髪の毛の感触を今でもはっきり覚えている。
あの男とのことがなければ、俺はあの人の手料理を食べるくらいはしていたのだろうか。
そんなことを考えながら車を走らせている時、標識に見覚えのある地名を見た。
車を路肩に停めて、胸ポケットを探ってメモを取り出す。
グマを切り取った後、念のために調べておいた奴の住所だ。
地図で電柱の住所表示を確かめると、奴の家はごく近いらしい。
ふと、家を探してみようかと思う。
別に奴に会うつもりはない。
ただ、どんな所に住んでいるのか知りたくなったのだ。
パーキングを見つけて車を入れると、さっき見た地図を思い出しながら「多分こっち」と思うほうへ歩く。
番地っていうのはきちんと割り振っているようで案外適当なものだから、近くまで行ってからぐるぐる迷うものなのだが、奴の家はすんなり見つかった。
地所が広かったのだ。
洋館だった。
目隠し程度の塀の内側には木が生い茂っているようだ。
あいつ、こんなところに住んでいるのか。
意外だった。
なんとなく彼は住所を決めずにホテルを渡り歩いているか、小さなマンションの1室でもねぐらにしているような気がしていたから。
それともこれは以前奴が家族で住んでいた場所で、あいつ自身は別のところに住んでいるのかもしれない。
そんなことを考えながら屋敷をぐるりと回っていると、裏口からゴミ袋を両手に下げた男が出てきたのに鉢合わせた。
「あ」
どちらがより驚いたか。
「どうしてこんなところに」
という言葉に覆いかぶせるように
「何だそのごみは。引越しでもするのか」
と畳み掛ける。
男はちょっとばつ悪そうにゴミ袋を見下ろしたが
「これだけ捨ててくる。話は後だ」
と言うとさっさと歩いて曲がり角のごみ集積所に袋を置き、戻ってきて
「散らかっているし、コーヒーくらいしかないぞ。」
と言いながら裏口をくぐる。
え、入っていいのだろうか。
おどろいたのでワンテンポ遅れたが、気が変わらないうちにと素早く続く。
「玄関はあっちだ」
と言われてもそのまま締め出しを食らうような気がして、続いて入ろうとしたが
「汚いから」
と鍵を閉められ、玄関に回る。
このまま開かないんじゃ、と思った頃、ピン、と鍵の開く音がした。
家の中は散らかっていた。
そこここにごみの袋や洗剤、水の入ったバケツなどが置いてあり、まるで大掃除の最中のようだ。
「埃が立っているのがいやなら帰れよ」
と言う男に首を振り
「コーヒーをくれ」
と促す。
奴がコーヒーを入れに行っているのを幸い、廊下に出ると、ドアがいくつもあった。
野次馬根性でほかの部屋のドアを開けてみる。
そこは検査室のようだった。
埃よけのカバーをめくると、最新式ではないが高価な検査器具が次々と顔を覗かせる。
「お前さん、根っからのストーカーだな」
唐突に響いた声に驚いて入り口を振り向くと、家主がいた。
「何を嗅ぎ回っているんだい。言えば部屋くらい、見せてやるのに」
と両手に持っていたコーヒーをひとつ差し出す。
かぐわしいコーヒーの香りに惹かれるように受け取り、一口すすって、二人きりなのを意識した。
もちろん入ったときからずっと二人きりだったさ。
最初に一人暮らしだと言っていたし、ほかに人の気配はなかったし。
さっきまで男にとって俺はどこからともなく沸いてきていつも仕事の邪魔をする商売敵なだけだったはずだ。
だが今、俺を見つめる男には、ある種の雰囲気があった。
そう、まるであの一夜のように。
コーヒーを持つあの手、今は口元へカップを運ぶだけの手がそれを放り投げ、俺に向かって伸びるのではないか。
そんな妄想を始めると、止まらなくなる。
そうしたら、俺はどうしようか。
機械的に口に運ぶコーヒーが泥のようにのっぺり口に広がる。
だが男はふいに俺から視線をはずすと
「この家は、安楽死の礼代わりにもらったんだ。この機器は全部金持ちじいさんを生かすためにあったのさ。今まではたまにしか帰らなかったけど、しばらく定住することに決めて大掃除を始めたら、こんな時に限ってお前さんが来るんだから」
と最後は怒ったようにぶつぶつ言った。
じゃあ今度からここに来ればこいつがいるのか。
いいことを聞いてしまった。
味の戻ったコーヒーを啜る。
唐突に
「ところで何でこんなところを歩いてたんだ。依頼か?」
と聞かれ
「いや、ちょっとここらに用があって」
とごまかす。
まさかここが用向きだったとは言えない。
「ふうん」
と胡散臭そうに鼻を鳴らす男に通じたかはわからないが。
コーヒーの礼に何往復かごみ出しを手伝った。
食事の誘いを断り手を洗って帰ろうとすると、ドアのところで肩をつかまれた。
振り向きざまに唇を奪われる。
男の手はさっきの妄想よりずいぶん熱く、俺の頤を掴んだままなかなか離さなかった。
だが俺がその気になる直前に男は体ごと離れ
「じゃあな」
とドアを開き、俺を押し出す。
あれよあれよと言う間に俺は門の外に出ていた。
今のあれはなんだったんだろう。
さっきの俺のようにちょっとムラッと来たのだろうか。
いや、一応のことをしたことがあるから、挨拶が変わっただけかもしれない。
妙な習慣を持つ国も結構あるからな。
俺の頭はいつまでたっても安楽死をやめないニクイ男のことで一杯になり、それまでの鬱欝した気持ちはすっかり消えてしまっていた。