ある男達の場合ーキリコ(下)
翌日起き出すと、男はもう着替えて新聞を読んでいた。
テーブルの上には食べ終わった皿のほかにもうひとつモーニングサービスが並べてある。
「遅いぞ。今日は朝から検査だ。今回はお前も助手として入ったんだから、最後まで付き合え」
と言う男はいつもどおりの目で俺を見るだけだ。
昨日の激情のかけらもない。
患者の体の状態は悪くなかった。
だが二人きりになった時に
「なぜオペを手助けしたの。こんなことしてほんのちょっと命を永らえても何になるの。私はもう努力なんかしたくない」
となじられる。
怒る気力がわいてきたのだ。
回復期の人間は些細なことで腹を立てるもの。
だが、一番危うい時期でもある。
ソーシャルワーカーと担当医師に念入りに患者の状態と注意点を伝える。
顔の横に男の視線を感じたが、珍しく口を挟むことはなかった。
そのまま俺はお払い箱だろうと思っていたが、患者の家族に
「せめてもう少しの間」
と懇願されてしまった。
「俺の仕事はないでしょう」
と言っても
「今日あの子が口を利いたのはあなたにだけなんです」
と泣かれると、参る。
俺にはあんなに怒鳴り散らした彼女は、他には一切口を開かず、目も合わせずだったのだそうだ。
ではしばらくこのままか。
ホテルに戻るタクシーの中、俺の頭の中にはすでに昼間の患者はなく、隣に座る男のことでいっぱいだった。
男の視線を頬に感じるが、昨日のことをなんと話せばいいものか。
途中までは押されて焦る気持はあったが俺だって乗り気だった。
奴のやり口は強引ではあったが、その強引さが嬉しくもあった。
なぜ男は豹変したのか。
そして何故俺はあんなに取り乱して逃げ帰るような真似をしたのか。
今日も同じ部屋で眠るのが恐ろしかった。
けれど、部屋に入った男がそのまま荷造りを始めるのを見ると、俺の恐怖は焦りに転じた。
荷造りを進める男に
「どこに行くつもりだ」
と聞くと
「シングルが空いたそうだ。お前は今までどおりここにいればいい」
と手も止めず、こちらも見ずに言う。
だめだ。
今、奴を行かせたら、俺たちは完全に壊れる。
肉体的な接触どころか、普通の会話すら出来なくなるだろう。
冷静になれ。
この男を翻意させるにはどうすればいい?
一つ息をついて、馬鹿にしたように
「短絡的な奴だな」
とつぶやいてみせると
「何を」
とやっとこっちを向いた。
その機を逃さずすばやく肩を抱き寄せる。
びっくり眼。
そんな表現がぴったりな抜けた顔のまま俺の口付けを受けていた男の手が、しばらくしてやっと俺に回る。
その力を感じるとほっとして、触れるだけだった舌をゆっくりと絡ませていく。
いやだというのは、こいつが、ではない。
その激情を受け止め切れない俺が嫌だった。
身食みするこいつを止められない、弱い己が。
単なる恐怖だけで男が射精など出来るはずがない。
そう、俺は泣き喚きながら、けれどそんな風に俺を真剣に求める男に興奮していたのだ。
死を望む者以外で、俺をこんなに求めてくれた人が今までにいただろうか。
安楽死医としてでなく、俺自身を求めてくれたものなど。
「何のつもりだ」
「何って何だ」
「昨日あんなに嫌がって・・・泣いたくせに」
いつもしっかりと俺を捕らえる力強い瞳が伏せられると、男の印象は驚くほど変わった。
そんな姿にどぎまぎしてしまい
「あんなSMの女王様みたいに迫られたら、普通の男は恐怖にぶっ飛ぶさ」
と軽口を叩くと
「何を」
といつもの瞳で睨み返してくる。
「だから、お前は極端なんだ。そんな風に周りをメスで切り裂くようなことばかりだから、損するんだ。俺は、その」
口に出すのはためらわれたが、思い切って言う。
「お前に触られるの、好きだ。だからお前も気持ちよくなってほしい」
だから昨日みたいなのはごめんだ、と言うと男の黒目がいつもより濃くなった。
ふわりと夢見るように広がった瞳孔は一瞬後には俺を捉えて
「風呂の用意してくる」
と言うとそそくさと出て行った。
短絡的な奴。
けどこういうことにせっかちなのが男の性だ。
先に風呂を使うように言い、入れ違いに入りながらそっと息をつく。
正直言うと、これからのことが心配だった。
こういう問題って一度失敗すると後を引くものなのだ。
しかも相手は不能だと言う。
気持ちよくなるって言ったって、どうすればいいんだろう。
子供の頃気持ちよかったり楽しかったりしたことは・・・駄目だよな。
それはあまりに性的なものと隔たりすぎている。
本当は、単に親密な友情を築けたら、それが一番だったのかもしれない。
俺があの時キスなんかしなかったら。
でもきっと、他の場面でしていたに決まっているのだ。
俺はきっとずっと前からそんな風に意識していたに違いないのだから。
ガウンを着て奴の部屋をノックすると
「ちょっと待て」
と言う声とともに中でちょっとばたばた音がしてからドアが開いた。
「どうした」
と聞くと
「なんでもない。ちょっと一人のうちに拡張していただけだ」
と言う返事。
ゴミ箱に手術用らしい手袋が捨ててある。
唐突に部屋の空気が濃くなったような気がして焦っている内、ベッドに引きずり込まれた。
こいつにはこいつのプランがあるらしい。
こうなったら、それに乗ってみようか。
乗るも乗らないもなかった。
女をとろとろに溶かすと決めた男の執拗さというのはこういうものなのだろうか。
俺自身はここまで丁寧に女と寝た覚えはない。
以前、構いたがりの女にすべて仕切られたことがあったが、そんなのとも違う。
技巧が優れているのではない。
貪欲に俺の反応を引き出し、一つ見つけた反応を倍化させようとする執念深さに、耐えようとしても声が漏れる。
それが恥ずかしくて口をつぐみたいが、俺だって若い頃は、セックス自体よりも、たとえ演技かもしれなくても寝る相手の良い反応を引き出せた時の喜びが一番大きかった。
それにこれは演技じゃないし。
今俺に触れているのは、あの男の手だ。
そう思うだけで高ぶってしまうほどに俺はこいつを意識していたのだ。
自分が動くのと、そうでないのではこんなに違うのだろうか。
恐ろしく早くに、俺は限界近くまで上り詰めた。
もう後ほんの少しの刺激ではぜる、という時に唐突に動きを止められ、甘い夢から覚める。
「もうちょっと我慢してろよ」
と言いながら男がスキンの袋を破り、俺にかぶせた。
「やめろ。昨日出血していたじゃないか」
という俺の制止を振り切り、男が俺に被さってくる。
そして
「せっかく拡張したんだ。使っていいだろ」
なんて嘯きながら俺をその身に収めていく。
昨日のような恐怖はなかった。
ただ、男の顔がどんどん白くなっていくのが心配でならない。
こんなの、ぜんぜん良いわけがない。
なのにこいつは、また昨日のように痛みをこらえて腰を振るのだろうか。
思い切って手を動かすと、昨日とは違って思い通りに動いた。
肘で半分起きて
「何だ」
という男の背に手を回してみる。
思ったとおり、体が冷たい。
痛みでこわばっているのだ。
完全に起きて肩を抱きしめ、空いた手で背をたどる。
「何だよ」
とあわてる男に
「もうちょっとこうしていたい」
と甘えてぴったり抱きつく。
冷たかった体が、触れ合ったところから温かくなってゆく。
それと共に男の体が少しずつ柔らかくなってゆくのがわかる。
昨日と同じく俺を痛いほどに締め付けていた体が、だんだんにほぐれていく。
以前ゲイの知り合いが教えてくれたんだけど、本当は入れて15分以上しないとうまく尻で感じられないのだと。
だから恋人との前戯はしっかりするし、その時におもちゃを入れておいたりして念入りに準備をするって。
俺達なんて初心者なんだから、もうちょっと動かないでおこうぜ。
苦行じゃないんだから、どうせなら気持ちいいほうがいいだろう。
そんな風に言い訳しながら、男にあんな身食みのようなことをさせたくないというのが本心だった。
なぜこの男はこんなに繋がることにこだわるのだろう。
俺はそんなにひどくこの男を傷つけてしまったのだろうか。
それとも過去に拭いきれないコンプレックスでもあったのか。
こんなに動かずにいたことはなかったが、悪いものではなかった。
横向きに抱き合ってなるべく力を抜き、髪の毛を漉きあい、そっと背を辿りあう。
時々俺がぴくりと動く。
あいつの中がひくりと蠢く。
それがなんとも心地よい。
男の顔が見たこともないほど柔らかくなっていく。
こんな顔をさせたのは俺なのだと思うと、嬉しくてたまらない。
なんてことだ。
動いてもいないのに、達してしまう。
「ごめん、動かしてもないのに出ちまった」
ばつは悪かったが、女相手じゃない、こいつなら許してくれるだろうと思うと謝罪の言葉がするりと出た。
「そんなので謝るな、俺がいたたまれなくなる」
と甘くささやくこいつは、身の内の鬼を一時的にどこかにやってしまったようだった。
今までセックスというのは快感を追い合うものだと思っていたが、ではこれは何なのだろう。
ゆるく舌を絡めあうだけの口付けに体の奥底が熱くなる。
もう達してしまっているというのに、自然にうめきのような声が漏れる。
「~~~」
男の喉から、声にならない声が漏れた。
突然にさざ波のような快感が起こる。
俺はもうとうに達しているはず。
なのになぜ。
目の前の男が達しているのだった。
内部が細かく収縮して、俺もそれに共鳴しているのだ。
射精している自覚はまったくない。
ただ快感だけがあとから後から追い寄せてくる、不思議な感覚。
しばらく離れがたくてぐずぐずしたが、意を決して腰をはずす。
またスキンに血の色があった。
手早くはずしてティッシュにくるむのを、男が目で追っている。
男の股間は濡れていない。
ドライエクスタシーという奴だったのか。
放出したことが、多分ないだろう彼。
こいつは今どんな気持ちなんだろう。
さっきまで大きかった男が、俺より小柄だったのに気づく。
抱き寄せてみると、驚くほど素直に従った。
頭を俺の肩に乗せ、上から押さえつけるようにして、硬い髪をすく。
しばらく逃れようともがいていた頭が重くなり、ひそかに震えだした。
肩がぬれる感触。
知らん振りして、頭をなで続けた。
翌日は俺のほうが早く目覚めたので、モーニングを二人分注文した後、手早くシャワーを浴びた。
コーヒーとタバコの組み合わせで寝起きの頭をはっきりさせながら思う。
昨日のあれは、何だったのだろうか。
夢にしてはあまりにも生々しいが、現実味に乏しい。
ただし、体に充実感が充満している。
体の中に溜まった澱が消えた感じだ。
患者は快方に向かっていった。
ずっと離れていた親友の幼なじみが見舞いに来てから気持ちが少しだけ変わったらしい。
さよならの日に
「何かが起こるかもしれないから、とりあえず明日まで生きてみる」
と言ってくれた。
それでいいよ。
つらいときは、とりあえず明日までで。
それが何度も続けば、明日は一月になり、一年になり、もっと長くもなるだろう。
もしかしたら、そのうちいいことがあるかもしれない。
本当だよ。
嘘じゃないって、俺もわかったばかりだけれど。
俺達は診察の日々の間、一緒のベッドでくっついては寝たが、あの日以来あんな風に繋がることはなかった。
内部の傷をきちんと治してしまいたかったからだ。
奴は一度だけ
「お前の安楽死はきっとあんな感じなんだろうな」
と言った。
それはほめ言葉だろうか。
だが
「俺以外の奴にはするな」
とすごまれたので、やはりこれからも俺の仕事を邪魔する気は満々のようだ。
日本に帰って一月はまったく連絡がなく、あれは俺の願望が見せた夢だったのだろうか、と思い始めた頃、奴が家に押しかけてくるようになった。
しばらくの間はバイアグラだのなんだのを試して勃起不能を治すべく努力していたが、どうにも無理だと分かってようやく諦めたらしい。
今度は俺を使って前立腺の開発にいそしみだした。
とにかく奴は自分が能動的に動かないと気がすまないらしく、俺が腰を揺するとすごく怒る。
散々色々触って俺の性感を高めた挙句、腰にまたがって自分のいいところを探し出すのから(しかも俺には動くなと言うのだから!)こいつ真性のサディストだ。
けれど我慢していると突然倒れこんできて
「動けよ」
なんてかわいいことを言い出すこともあるのでどうにも始末が悪い。
しかもあいつ、放出して終わりじゃないからじくじく長引くこともあるらしく、そういう時に構ってやるとすごく……いや、これ以上は俺だけの秘密だけれど。
残念だが俺は多分もう女とできないだろう。
すっかり奴の手に翻弄されたり、焦らされたり、そうかと思えば雄であることを堪能したりの行為に慣れてしまって、昔のような単調な行為に戻れそうにない。
そういう気持ちがしぐさに出るのか、女から声を掛けられる回数もめっきり減った。
男として少々寂しいものはあるが、しばらくは奴に捨てられる心配はなさそうだから、ま、いいかと思う。
今でも時々仕事がバッティングして、それが原因で大喧嘩になることもあるが、以前ほどには長引かなくなった。
仲直りの後は、あのスローセックスを試す。
お互いに我慢比べみたいになるが、あいつが愛しくてたまらなくなる。
した後であいつが堰を切ったように甘えてくるのもたまらない。
人から見たらいびつすぎる関係だろうが、構いやしない。
俺達が俺達らしくいるためには、多少のいびつさが必要なのだ。
これは俺達にしか味わえない果実だ。
世界でたった一つの味わい。
渋みや苦味に顔をしかめることもあるが、それがあるから余計に次が恋しくなる。
そして、顔をしかめた後の果実はそれまで以上に舌にとろける。
ついむさぼらずにいられないほど。
お互い商売が商売だから、いつかはどちらかが欠けて終わるのだろうと思う。
でもそんなの、誰だってそうだ。
俺達はちょっと確率が高いだけだし、それがわかっているから余計に今を大事にすごせるのだと思う事にしている。
願わくは、これが長く続かんことを。