ある男達の場合ーキリコ(上)
あいつも俺が好きだ。
それに気づいたのはかなり前だったような気がする。
もともとは単なる商売敵だった。
あいつは俺を腕が悪くて治せないから殺してしまう落伍者くらいに思っていたんじゃないかと思う。
俺は奴の傲慢さが気に入らなかった。
けれど何度か顔つき合わせているうちに、何かが変わっていったのだ。
といっても、あいつは今でも仕事の時にはただの疫病神だ。
普段なら己でも放っておくような患者にまでしゃしゃり出てきて、とことんまで俺を邪魔する。
そのため患者が第一義にならず、対立が深まることもしばしばだ。
だがそれは俺を見下す為でなく、俺にいわゆる『手を汚させたくない』ことから発しているのだと知っている。
余計にタチが悪いともいえるが。
ただし、その「好き」は俺と違って単なる友情とかシンパシーだと思っていた。
何かの折ぼんやりした時など、ふと視線を戻すと必ず俺を見つめる瞳と出くわす。
そんなのが積み重なる内、もしかしたら、と思ってはいたけれど。
あいつの好意が俺のと似たものだと知ったのは、ある患者のオペの後だ。
難易度の恐ろしく高い、オペだった。
いくらお前さんでも絶対無理だと本気で反対したのに、手術は大成功。
あの手腕には本当に驚くほかない。
手術室から出てきたあいつはいつもどおり
「急変したら起こしてくれ」
と言うとソファに横になっていびきをかき始めた。
脱帽だ。
集中治療室に運ばれた患者の状態は、悪くない。
悔しいが俺は用済みだな、と思いながら戻った手術室前には奴がそのままの姿で眠っていた。
照明も落とされた廊下は肌寒いほど。
こんなところで寝ると、風邪を引くぞ。
揺り起こそうとしても、むにゃむにゃ言うだけ。
腕にかけていた俺のコートをかけてやり、その顔を見る。
なんか子供が一生懸命寝ているみたいな顔だ。
ちょっとした気まぐれを起こして
「お疲れさん」
と言いがてら頬に軽く唇を当てる。
変なことした、と苦笑して離れようとした時、奴の目が開いているのに気づいた。
あ、と思った時には奴の手が俺の腕にかかっていた。
じっと目をそらさないあいつに引かれるように、キスしていた。
いつの間にか俺の背中に奴の両の腕がある。
こんな所、誰かが通ったら言い訳きかんぞ。
頭の隅で常識がわめくが、据え膳を食わぬももったいない。
ああ、でも今ならまだジョークで収まるかも。
舌を入れちまおうか、どうしようか。
そんな雑念でいっぱいになっている内に、気がつくと奴の呼吸が規則的になっていた。
寝たか。
そのまま集中治療室の前に移って患者の様態が安定するのを待ったが、頭の中は先ほどのことでいっぱいだった。
あいつは俺を俺と認識していたのだろうか。
それとも、と。
朝になって奴がやってきた。
「これ、おまえのか」
とコートを持っている。
「ああ」
と言うと
「助かった。患者はどうだ」
と俺に差し出しながらインターホンで中の医師と話をしている。
「どうやら持ち直したな」
と言うやつはやはり憎たらしく
「じゃあな」
と言いざま去ろうとしたが
「俺も出る。着替えるからちょっと待て」
と言いながらさっさと準備室に歩き出してしまう。
待つ必要なんかないさ、あいつの嫌味なんて聞き飽きているだろう、と思うのに、なぜか足は動かない。
もしかして、夜中のことだろうか。
いや、あんなのはどうってことない。
ただのお疲れさんのキスでぐだぐだ言うなと言ってやれば。
苦情を言われたら
「日本人は細かいことにうるさいな」
とあきれて見せればいいのだ。
本当にうるさいのは事実なんだから。
奴が空腹を訴えるので、朝食を摂ることにした。
病院から少し離れたファーストフードが開いていたので、そこに入る。
本当はせめて喫茶店のモーニングと行きたい所だが、七時前とあっては仕方ない。
二階の喫煙席には、俺達だけ。
カウンターの前のスツールに並んで腰掛け、咀嚼し、飲み込む。
それを繰り返した後、半分残したコーヒーと共にタバコを吸ってやっと人心地ついた気分になる。
そろそろ徹夜もきつくなってきた。
俺もそんな歳だ。
ぼんやりした思考から覚めてふと隣を見ると、奴が俺の事をじっと見ていた。
「何? 火か?」
とライターを差し出そうとしたら
「違う」
と言いつつ、だがライターごと手を握られた。
「コートをかけてくれた時、したことをしたい」
訳のわからない言葉を口走りそうになった。
だが一度深呼吸して
「こういう所にはカメラがあるぞ」
と天井を指すに留める。
いくらこのフロアに人がいないからと言って、窓からは燦々と朝の光が降り注いでくるのだ。
こいつの顔にもあの時のようなある種のかわいげはなくなっている。
いや、あれは多分深夜の幻だ。
この強面の男にかわいげもあったもんじゃないだろう。
なんて現実逃避をする時間はほとんどなかった。
男は
「ちょっと来い」
と俺の手をつかんだまま立ち上がり、俺を引っ張ってフロアの隅に連れ出した。
え、ここはトイレ。
思う間もなく引きずり込まれる。
小用が二つ、洋式が一つ。
まだそんなに使われてないから汚くはないが、こ、ここで何をするんだ。
恐ろしい予感に内心おののきながらも
「ちょっとかがめ」
と不機嫌そうに言う男につい従ってしまう。
ほんの一瞬。
いや、もうちょっと長かったか。
受けた口付けはやはり女からのものとは違っていた。
硬くて熱い。
俺の髪をさらりと触った男は
「じゃあな」
と言うと去っていった。
一瞬
「それだけかよ」
と思った己を頭の中で叱り飛ばしながら外に出ると、奴は階段を降りる所。
俺もトレーに載った残骸を乱暴にゴミ箱に押し込んで、続く。
外に出てすぐに追いつき
「何のつもりだ」
と肩に手をかけて振り向かせると
「夜中の続きさ。これ以上はしないから安心しろ」
と言いつつ俺の手に自分の手を乗せる。
だが手をはずす振りして、実はその親指が俺の手のひらを愛撫したまま離さないのだ。
言動不一致に開いた口がふさがらない。
何故だかわからないが、それからは会う度どこかでキスをした。
トイレで、喫煙所で、外の道で。
数分前まで口論していた同じ口が俺を覆う。
二度目からは何故と問うたことがない。
いつでも俺たちは忙しくて、それとも向き合うのがちょっと怖くて。
けれど、向き合わざるを得なくなる日はやってきた。
ホテルの同室になったのだ。
またしてもバッティングした患者を取り合う羽目になり、慌てた依頼人が部屋を取りに走った時には満員で、ホテルのスイートしか残っていなかった。
まあ、二ベッドルームスイートだから部屋はリビングの他に個室が二つある。
個室があれば、別にかまわない。
どうせ帰っても話すのはオペに関することだけだ、と奴はそう言う。
オペは奇妙なことになった。
病院が外部の人間(つまり、奴だ)がオペをすることに難色を示し、部屋は貸すが助手は貸さない、と言い張った為、なぜか俺が助手をすることになってしまったのだ。
両方の依頼人が(ついでに俺も)難色を示す中、奴が決めた。
俺たちは最善を尽くす。
この男は俺が駄目だと言うまでは絶対に助手を続ける。
そして俺はあきらめないから、と。
ホテルに戻り、レストランで食事をしながら問いただす。
「何でそんなことを言い切れるんだ。俺の親父の時のこと、忘れたのか」
すると男はじっくり肉を咀嚼した後
「だからこそだ。お前は同じ過ちはしない。あの時のことがあるから、途中であきらめられないはずだ。ニューヨークの時だって何度もあきらめようと言いながら結局最後まで付き合ったじゃないか」
と俺を見つめる。
その目が恐ろしく真剣で、気圧されそうだ。
確かに今回のオペは、こいつの腕なら多分大丈夫だと思う。
けれど万一のことがある。
もし患者が死んだり重篤な症状が出たりしたらどうするのだ。
俺のせいに、ひいては俺を推薦したこいつのせいになりはしないか。
それどころか、本当は最初から自信がなかったから安楽死させるつもりだったのではないかと詰られるのではないか。
部屋に戻ってもう一度しつこく問うと
「なんだ、俺を心配してるのか?」
とふざけた笑いを見せた後、俺の肩をぐいとつかんだ。
いつの間にかその先にベッドがあった。
今まで触れるようなキスしかしてこなかった。
好きだと言っても男同士だから、そんなもんだろうと思っていた。
お互い医者だから男同士がどんなに非衛生的かもわかっているし、体に負担があることも重々知っているし。
いや、正直言うと、俺はあいつを性欲の対象にするのが怖かった。
軍隊時代、なぶりものにされた男を何人も見ている。
正直、俺もされかけたことがある。
男同士ってのは、つまりは喧嘩だ。
そうでなけれはマウンティング、つまりは支配だ。
俺は奴に組み敷かれて突っ込まれるなんて真っ平だったし、けれどあの男を支配することなんて出来そうにない。
そんなことをしたら、俺たちどちらかがおかしくなる。
もしかしたら、両方とも。
「何だよ。こういうのは嫌か?」
俺に圧し掛かり、ネクタイを緩めながら、男は頬をゆがめる。
「お前にとってはキスなんてただの挨拶とか親愛の情かもしれないけど、日本人の俺は違う。俺はいつもこんな風に考えてきた。お前をそういう対象に考えてきたんだ。嫌ならいやだと今拒否しろ。」
言ってまた俺の口を吸う。
舌が入ってきて、舌先をくすぐる。
それ以上は入らずに、だが目をそらさずゆるゆる動かす。
ああ、視線が近い。
近すぎて視界がぼやけて、開いているのか閉じているのかわからなくなる。
俺が目をつぶってしまったのを同意と受け取ったのか、舌が大胆に絡んできた。
えい、ままよ、と動きをあわせる。
こういうことを想像したことがなかったわけではない。
けれどもなんとなくこういう時は俺がリードを取る側だと思っていた。
なぜって俺のほうが上背もあるし、奴のほうが童顔でまつげも長いし。
つまり、外見で言えば、俺みたいな男そのものの人間をどうかしたいと言うほうがおかしいと思っていたし。
昔俺がなぶりものにされかけたのは、やっぱり当時の俺が美青年の範疇に入ったからだと思うのだ。
今の俺なんて髪もぼさぼさだし、眼帯までつけたどこから見ても中年のおっさんで、どこを取っても女らしいところとか可愛い所なんてこれっぽっちもないと言うのに。
でもこいつにはそういうのは関係ないんだろうか。
男の指が服の上から動き回る。
男の舌がはだけられた首元を耳までたどる。
不思議なことに、嫌な感じではない。
耳たぶを甘噛みされた時、腰に来る快感が確かにあって、少々焦る。
こんな、俺ばかりじゃ嫌だ。困る。
大体いつの間に俺がこういう立場になることになったのか。
焦っても、俺の腕はなぜかピクリとも動かないのだ。
見えない何かで縛られてしまったように、抵抗なんて考えられない。
俺、そういう気があったんだろうか。
今まで気づかなかっただけなんだろうか。
かちゃかちゃと金属のこすれる音がする。
腰周りがふと楽になり、これはベルトを外す音だったかと気づく。
じりじりとファスナーが降ろされる音。
さすがにこれはまずいんじゃないか。
動きの鈍い脳みそを叱咤しながら何とか手を抵抗の形に動かすが
「こんなになってからそれはないだろ」
という言葉とともにきゅ、と握られるとどうにもならない。
確かにそのとおりなのだ。
今抵抗して止められても、そのまま落ち着くのは困難だ。
それこそ冷たいシャワーでも浴びるか、自分で処理するか。
どちらにしても、お互いバツの悪い思いをするのは一緒だ。
それならこいつの手に任せてしまっても同じなんじゃないか。
理性の一部が
「本当にそれでいいのか」
と遠くで叫ぶが、耳元で
「委ねろよ」
とささやく悪魔の誘惑の方が圧倒的。
大体男ってもんは本能に火がつくと思考が短絡的になり、流されるもの。
そんなこんなで達してしまった。
奴の手で。
はだけられたズボンに手を突っ込まれて、抵抗らしき抵抗もせずに。
自失からさめると、俺をじっと見る男と目が合った。
俺の出したもので汚れた手を抜き取り、俺の目を見つめながら……ひと舐め。
思わず飛び起きて
「手を洗って来い!」
とわめくと、にやっと笑って洗面所に去っていく。
視界から奴が消えたところでため息をついた。
さてこれからどうしようか。
こういうものにはお返しがつき物だ。
まさか俺だけありがとうございましたというわけには行くまい。
同じことをするだけでいいんだろうか。
それともこのまま一気にただならぬ関係になってしまうのだろうか。
こうなったら腹をくくるしかないんだろうけど、やっぱり困る。
痛いのかな。
そうなんだろうな。
けれど奴は洗面所から出ると
「お休み」
と言って自分の部屋に入ってしまった。
なんだ、それ。
ほっとしながらも
「なんだ、それ」。
オペの前だからだろうか。
俺がオペの途中で体調でも崩したらことだし、とか、そういうことなのだろうか。
でも。
眠ろうとしてもそんなことばかり考えてしまい、その日は夢見が悪かった。