ある男達の場合ーブラックジャック 下
した後にするから後悔。
防音の効いた部屋だから、隣の部屋で何をしているのかなどまるでわからなかった。
呆然としながらも俺の手は俺の意思に関係なくてきぱきと後始末を終え、傷の手当てを始めてしまう。
しみる。
痛い。
でもあいつはもっと痛くて怖かったのだろう。
泣いていた。
あいつの泣き顔なんて、夢の中でも想像したことがなかった。
どんな時でも超然としている奴だったのだ。
実の親の死の時でさえ、肩を震わせるだけで涙を見せはしなかったのに。
明け方シャワーを浴び、しばらくしてからモーニングを頼んで新聞を広げる。
いつもの時間を過ぎても、奴は起きてこなかった。
そろそろノックをしなければ、と思っているとドアが開く。
いつも顔色が悪い奴だが、今日はひどい。
だが俺を見ても逃げずにテーブルに着き、もそもそ食べ始めたのに少しだけ安心する。
強い男だ。
患者の様態は良好だったが、わがままな患者はすでに美しい死を思い描いていたらしく、俺達が診察を終えて出ようとするとキリコを呼びつけた。
散々なじる声が外からも聞こえる。
あれだけ元気なら回復も早かろう。
あんな恨み節、適当にして出てくればいいのに。
ああやって聞いているから余計に興奮してどんどんエスカレートしていくのだ。
だがそのうち患者がわっと泣き出すまで男の声は一言も聞こえなかった。
しばらくしてから出てきた男は関係者に向かって静かに注意点を話す。
そういえば、患者や依頼人の前で声を荒げるこいつを見た事がない。
俺にはよく怒鳴り散らしていたけれど。
帰りのタクシーの中、緊張してぴりぴりしている隣の男を見て、俺は部屋を出ることに決めた。
フロントでキーを受け取る時試しに聞くと、空き部屋ができたという。
どんなにこいつが強くても、俺がいては休むことも出来ないだろう。
今日の応対をみれば、仕事に絡んだことなら逃げないことがわかる。
それならしばらく離れていれば、また普通に話せる日が来るかもしれない。
何年、何十年後かわからないけれど。
部屋の鍵を開ける時、隣の男がごくりとつばを飲んだ音がした。
こんなにおびえさせちまって、ごめんな。
もうちょっとの我慢だ。
俺の荷造りなんて、すぐに済ませてしまうから。
細々した物をかばんに放り込んでいると、背後から
「どこに行くつもりだ」
と硬い声で問いただされた。
シングルが空いた。
お前は今までどおりここにいればいい。
そう答えると一拍置いてため息が聞こえ
「短絡的な奴だな」
とさも馬鹿にしたような声が響いた。
なにを。
振り向いたすぐそばにあいつがいたのにぎょっとして一歩引こうとした途端、手が延びて肩を掴まれる。
瞬間殴られる、と思ったが、近づいてきたのは拳ではなく男の顔で。
しばらくしてからはっとして男の背に手を回すと、途端に口付けが濃くなった。
抱きすくめられる感触。
ああ、やっぱりこいつは背が高い。
口の周りをぬぐいながら
「何のつもりだ」
と聞く。
「何って何だ」
という飄々とした問い返しに目をあわせていられなくなり、伏せながら昨日なぜ泣いたのかを問うと
「あんなSMの女王様みたいに迫られたら、普通の男はぶっ飛ぶさ」
とにやけた声で男が答える。
俺はまじめに聞いているのに!
腹が立って一発お見舞いしてやろうとしたが、子供みたいにいなされ、それから手で顔を包まれる。
俺の頬をなでながらしばらく黙っていた男は意を決したように口を開くと、患者に出す時の取って置きの声で言った。
「お前に触られるの、好きだ。だからお前も気持ちよくなってほしい。だから昨日みたいなのはごめんだ」
と。
視界が開ける感じ、わかるだろうか。
度の合わないメガネをかけていた人が、ぴったり合うメガネをかけて初めて外を歩いた時に感じるという、そんな感じ。
今までうすぼんやりしていた背景一つ一つが目の前に迫ってきて、世界がびっくりするほど色鮮やかだったことに気がつくという。
俺の目の前に広がったのは、まさにそれだった。
その俺の視界の中心で、俺の男が微笑んでいる。
俺が大好きだけど時々憎らしくてたまらなくなる、あの少しだけ皮肉めいた顔で。
鼻の奥がつんとしてきたので、あわてて風呂の支度をしに行った。
先に使わせてやろうと思ったが辞退されたので、体を隅々までこすりまくる。
昨日も一昨日も俺は汚いままの体であんなことをしていたのだ。
それだけでも嫌われるのに十分なのに、俺は独りよがりで相手の気持ちなんて何にも考えていなかった。
挙句に悪夢で見た一番ひどいことをしようとした。
もしあの時あいつが夢の中のように軽蔑のまなざしで見ていたら、俺はどこまでエスカレートしてしまっただろう。
入れ替わりにシャワーの音がするのを背に聞きながら、俺は部屋に戻るとドアに鍵をかけた。
使い捨てのオペ用手袋を手にはめると、ワセリンのふたを取る。
受け入れられているとわかった今なら、昨日と同じようなことをしても、昨日と違うことになるんじゃないかという気がした。
もちろん、あいつが嫌がったらやらない。
だけどもし許しが得られたら、俺は昨日の仕切り直しをしたかった。
ぴりぴりする痛みはあるが、このくらいの傷、なんてことない。
俺は欠けた人間なのだから、いつでも人より多くの努力が必要なのは当たり前だ。
作業に没頭していると、軽いノックの音がした。
あわててそこら辺を片付け、ドアを開ける。
「どうした?」
と聞くのでちょっと拡張していたというと、奴は妙な匂いでも嗅いでしまったような顔をした。
空調は入れているが、消臭も必要だったろうか。
そこら辺は次回の課題としてベッドに連れ込み、のしかかる。
本当にいいんだよな。
これは同意の上、なんだよな。
口付けの時に男の手が上がり、俺の頭にかかった。
その手は俺の頭の形をなぞり、耳から頬を辿っていく。
俺の手がガウンをはだけても、その中を探検し始めても、男は嫌がったりせず、ただちょっと首をすくめただけだった。
そんな男の反応を見ながら、体の隅々まで調べていく。
敏感に反応する場所。
反応がないように見える場所でも力加減を替えたり、他の触れ方をしたりすると反応を見せるのが面白い。
人体の不思議。
耳学問でしか知らなかった様々な反応に夢中になる。
感じるのか、のたうつ身体。
いつの間にか完全に勃起したその中心に羨望せずにいられないが、ないものねだりをしても仕方ない。
手早くスキンをつけてやり、その上に腰を落としていく。
又
「やめろ」
と言われたが、昨日のように恐怖に満ちた声ではない。
大丈夫。
昨日の傷が開いたのがわかった。
身体の裏側からズキンズキンという音がする。
そんなのを無視して、又少し腰を進める。
やっと尻が男の皮膚につき、震えているのを隠しながら長く息を吐き出した。
多分俺は証が欲しいのだ。
この男をものにしたという証が。
無理やりでなく、俺の物になってほしい。
本当にそんなことができるなんて思ってはいないけれど、ほんの一時でも俺に感じて、俺を受け入れ、昂ってほしい。
腰に手が回った、と思うと、奴が起きだしてきた。
俺を覗き込む目にどきどきしながら何だと聞いても答えずに起き上がる。
そのまま俺は抱きこまれてしまった。
「何だよ」
と手を離そうとしても
「もうちょっとこうしていたい」
と甘えた声で余計に抱き込まれ、部屋中に響いているんじゃないかというほど心臓がどきどきする。
仕方なく諦めて力を抜いてもたれかかると、いい子だ、というふうに頭を撫でられた。
尻で感じるには時間がかかるからもうちょっとこうしてよう、という提案は俺にばかり有利でずるいんじゃないかと思ったが、その方が奴も気持ちいいと言うことだったし、その腕の中にいるのがあまりに心地良いので言葉に甘えることにした。
つながったまま横になり、男の髪を梳く。
やっぱりきれいで、気持ちいい。
もし今度いっしょに風呂に入れたら、この髪の手入れをしたい。
嫌がるかな。
目の下を指で辿られ、なんだ? と聞くと
「一度触ってみたかったんだ。やっぱりぷにぷにしているんだな」
と微笑まれた。
まぶたの線がきれいに弓なりになるのを間近で見て、又心臓がダンスを踊る。
もう、どこでも触ってくれ。
矜持とか支配とか考えていた俺はなんと世間知らずだったか。
背を辿る手に背骨がとろける。
その時男の身体がぴんと張った。
俺を押さえ込んで二度、三度。
腰をぐりぐり押し込まれる動きに何が起こったのかわからないでいると
「ごめん、動かしてもないのに出ちまった」
という謝罪。
それは刺激による反射でなく、俺に、おれ自身に感じてくれたということなのか。
受け入れられているんだ。
欠点は直さなければ。
それができないなら隠さなくては、誰もが俺に背をそむけるだろう。
患者には自分に自信を持てなどと偉そうに説教しながら、俺自身に関してはずっとそんな風に思っていたような気がする。
けれど、こいつは欠点だらけのこの俺をみんな見て、それでも俺に感じてくれた。
そのままの俺にいいよ、と言ってくれているんだ。
体の奥底がぶるりと震えた。
その震えは圧倒的な強さで俺を飲み込み、高みに上げていく。
何か叫んだような気もするが、のどが震えた自覚はない。
その日、俺は初めて心身両方の快感というものを体験した。
我に返ると、俺は男に髪を梳かれていた。
「戻ってきたか?」
という口調があまりに優しくて素直にうなずき、そんな己にちょっと驚く。
達したといっても俺自身が何かを出せたわけでなく、前立腺からのドライエクスタシーだったらしい。
最初は痛みだけだったのに、そういえば途中からは大きさに慣れたのか、力が抜けたのが良かったのか、違和感はあまりなくなっていた。
だが聞きかじりではこういうエクスタシーはかなり慣れないと感じられないということだったから、余程こいつがうまかったのかもしれない。
男の精の始末を見るともなしに見ながらぼんやりしていると、突然体を引き寄せられた。
訳がわからずもがくが、肩に押し付けられて髪を梳かれているうち何かがこみ上げてきて、顔を見られないのを免罪符に、それを出すのを己に許した。
こいつはきっとこんな俺でも受け入れてくれるから。
どんな俺でも苦笑するだけで許してくれるだろうから。
今までに数回、男の安楽死に出くわしたことがある。
どの依頼人も驚くほど穏やかな顔をしていた。
それはこんな風に弱点も欠点もみんなそのままでいいんだと全身で示してくれるこの男のせいなのだろうか。
俺が運命に抵抗しろ、とはっぱをかけるのと反対に。
帰ってからしばらくの間、俺は依頼の隙を縫うようにしてもう一度自身の検査を行ったが、結果は外科的な治療しかないことが判明しただけだった。
少しばかりセルフオペの誘惑に駆られたのは事実だが、一晩考えて止めることにした。
以前サリドマイドの子に、そのありのままでいいじゃないかと言ったことがある。
でも俺自身は弱みを隠そうと必死になってばかりだった。
隠そうとして、それができないなら相手を別の手段でねじ伏せられないか、ほかのことで自分の優位を保てないかとそればかり。
もし機能が作れたからといって、何になるのか。
子どもが欲しいのなら別かもしれないが、俺達はどうせ男同士なのだからできっこない。
俺の欲望は、ただ奴と対等であるために必要だと俺が思い込んでいただけの幻影なのだ。
奴にとってはそんなの俺が5本指か6本指か、位の違いでしかない。
本人にとっては重要でも、他人にとっては大した問題ではないのだろう。
人間は皆何かしら足りないものがあるけれど、その手持ちの駒をどう使って生きていくかが大事なのだ。
そんな風に思っていても俺はやっぱり俺で、あいつとそういう風になる時は対抗心がむくむく出てきてしまい、されるよりしたい、と我が侭に押し切ってしまう。
押し倒される側の男は又か、という顔をしながらも満更ではないようだ。
俺の手は男の体を熟知するようになった。
だが、まだまだあいつは秘密を隠し持っているようなので、しばらくの間探求は終わりそうにない。
俺自身もずいぶん変わったと思う。
奴を往かせた後なら、「お返し」されても甘受できるようになってきた。
だってあいつが甘えてくれるから、俺も少しはいいかな、と。
今でもバッティングして口汚くののしり、やはりこいつを支配したいという暗い考えに陥ることがある。
だがそんな時は必ず奴が前にやったような静かなセックスを提案してくる。
ただぴったりくっついているだけなのに「お前を受け入れるよ」という奴の声が聞こえるようで、俺はいつもおかしくなってドロドロに溶ける。
この男は本当に恐ろしい。
先日、仕事で寄った港町で懐かしいあの人を見た。
大きな荷物を抱えているので思わず手助けしたくなったが、どこからか船長らしき男がやってきてあの人の荷物の重そうな半分をさりげなく持ち、歩き出す。
その横をきびきびと歩きながら何かを話すあの人は、日に焼けて以前より元気そうに見えた。
どうか幸せであってほしい。
(紙面あとがき)
最後までごらん下さり、誠にありがとうございます。
カップリングは上下にこだわる方が多いようですが、ではキリジャともジャキリともいえない形はないだろうか、と考えて思いついたのが今回の設定です。
もともとはキリコバージョンだけのつもりだったのですが、書き終えてからBJ側の心情を想像する内、こちらも書かずにいられなくなりました。
書き終わってみると二人の話のトーンがかなり違う……
でも、同じことをしても、同じものを見ても、同じようには感じられないのが人間ですから、当たり前なのかなとも思います。
つたない文章ですが、感想をいただけたらこれ以上の喜びはありません。
又、今回はリリコ様にわがままを申してすばらしい挿絵を描いていただきました。
リリコ様、本当にありがとうございました。
グリコーゲン