ある男達の場合ーブラックジャック 上
奴も俺が嫌いじゃない。
そのことはずっと前から感じていた。
いや、最初のうちの俺達はいがみ合ってばかりだった。
いがみ合うというのもあたらない。
俺は奴が許せなくて何かというと突っかかって行き、奴はそんな俺をうっとうしく思っていた。
多分、それだけ。
奴の側は。
俺自身はそうじゃなかった。
俺にはどこかに枯れた老人みたいなところがあって、基本的に患者以外の人間とかかわるのが面倒くさい。
絡まれれば受けて立つが、自分から誰かを追いかけるということはほとんどなかった。
それは俺の身体的欠陥とも関係しているのだろう。
俺は、不能なのだ。
精通がないのはちょっと遅いかな、と思いながらも体のあらゆる部分が不調といえば不調だったので、高校あたりまではあまり気にしていなかった。
特別好きになった子もいなかったし。
愛だの恋だのに関係ない雰囲気だったからか女友達はいたが、俺には同性と話すのと同じようにしか感じられなかった。
初めておかしいと悟ったのは、あの人を好きになった時だ。
めぐみさん。
盗み見するようにこっそりその姿を求め、影から出来ることはないかと考え、眠ると夢に見たあの人。
そんな風に恋い焦がれたというのに、性夢だって見たというのに、俺は夢精すらしなかった。
オナニーを試みなかったわけじゃない。
あの人のことを考えているうち股間がむずむずしてきて手を伸ばしたことは何度もあった。
けれど心の中ではどんなにいやらしいことを考えても、まずまともに勃起しない。
それからだ、俺の苦悩の日々が始まったのは。
とはいえ、諦めがつくのもまた早かった。
あの人は女性の部分がなくなると自分の運命に立ち向かう為に一人で旅立ち、俺は自らの治療をやめた。
不能くらいが何だ。
世の中にはそんな人間、いくらだっている。
今は海の上にいるという、あの人だってそうなのだ。
俺はきっともう恋なんてしない。
誰かを追い求めたりも、しない。
決して。
その思い通り、俺は人と無用の接触をすることなく過ごしてきた。
復讐する為にはそのほうが都合良かったし、気になる相手もいなかった。
気まぐれに誰かと接触することがあっても声を荒立てるのは決まって相手のほう。
俺の側ではない。
いや、なかった。
奴が現れるまでは。
反発がそれだけではないのに気づいたのはいつだったろう。
二度目の恋は、最初のそれより絶望的だった。
ただ商売敵だからというだけじゃない、決定的な絶望は、奴が同性だということ。
こんなの、言えるわけがないじゃないか。
大体告白して、万一奴が男も大丈夫だったとしても、その後どうすればいいというのだ。
二人してお手手つないで寝ろとでもいうのか。
自分が抱かれるという選択はなかった。
勃起できないから、抱いてくれとすがれとでも言うのか。
そんなの、惨め過ぎる。
そんなことをしたら、奴も俺を見下すだろう。
それくらいなら、この思いは墓場まで持っていく。
そう決意していたのだ、俺は。
あの時までは。
それは何度目かもわからないバッティングだった。
最初カルテを見た時には
「無理だ」
と断ったオペだったが、奴が絡んでいると知ったので我慢できずに手をあげた、そんな無謀な奴。
一瞬たりとも集中を切らせることが出来ない、難手術だった。
最初から最後まで開け続けていた目が痛い。
患者を病院に引き渡すと長椅子に寝転がり、一瞬で意識を飛ばす。
俺の得意技だ。
「おい」
とゆすられ半分意識を戻した。
が、どうしても目を開けられない。
「風邪引くぞ」
という耳に心地よい声は、あいつのものなのだろうか。
なんか温かい。
髪を漉かれる感触。
ああ、夢か。
寝る前にあいつの顔を見たから、それでこんな願望を。
「お疲れさん」
という声と共に、頬に温かみを感じた。
ちゅ、というかすかな音。
どうしても開かなかった目がぱちりと開く。
目の前にはちょっと驚いた顔した、あいつがいた。
思わず腕に手をかけていた。
長い、長い時間。
それともほんの短い時間。
奴の目の中に俺が映るのを幻じゃないかと覗き見ていると、瞳の中の俺がどんどん大きくなっていき、気がつくと唇同士が重なっていた。
やっぱり夢だったか。
熟睡して、ぽかりと目を開けた時にはそう思ったが、俺の体の上に俺のではない上着がかかっていた。
左手に巻きついた一本の銀髪。
そうだ、俺はあいつの背に手をまわしてあの髪に触れたのだ。
そしてあの唇に。
上着からあいつの匂いがかすかにする。
もう行ってしまったのだろうか。
そうだとしても、次に会うまではこれを持っていられる。
だからいなくてもがっかりするな。
そう唱えながら歩いてきたが、男は患者の様子をガラス越しに観察しているところだった。
振り向いて俺を見た時の顔に一瞬掠めたもの。
それを見た時、俺はわかった。
さっきのキスは、夢じゃない。
ただのねぎらいかもしれない。
いや、きっとそうだろう。
でも、ねぎらいでもいい。
あんな幻のようなものでなく、きちんと俺が覚えていたい。
それは俺の一世一代の勇気だった。
チャンスというのは一瞬で過ぎ去ることを、何度もの苦い経験から俺は知っていた。
もちろん、これは賭けだ。
けれど俺はいつも賭けている。
オペの度ごとに。
この勝負に負けたら、と考えると足がすくみそうになるが、一歩を踏み出さなければ賭けの舞台にも立てないのだ。
奴を誘って、外に出た。
どこに行こうか迷ったが、腹が減ったので駅近くのファーストフードに行く。
俺達にはそぐわない、白くて明るい店内。
そんな場所で機械的に食べ物を咀嚼しながら、なんと切り出そうかと悩む。
やはりこのまま幸せな夢のままにしたほうがいいのかも知れない。
先に食べ終わった男が、タバコを取り出した。
いいか、と目で聞くのにうなずくとコーヒーをそばに寄せて火をつけ、一服。
ふーと長く息を吐き出すと、一拍置いてコーヒーをすすって目を細める。
コーヒーが手元にある時の、この男の癖だ。
ああ、俺はこんなことまで知るほどにこの男を見続けていたのだ。
今まであの人以外にここまで他人に入れ込んだ事があっただろうか。
夢幻でなく、現実が欲しい。
短い間でもいい。
たった一度でもいい。
そのせいで軽蔑されても、また最初に戻るだけだ。
ずっと嫌がられても付きまとってきたんじゃないか。
俺はまた繰り返せるはず。
俺の視線に気づいたのか、奴が
「火か?」
とライターを差し出した。
その手を上からそっと掴んで
「コートをかけてくれた時、したことをしたい」
と言う。
奴は顔色も変えず
「こういう所にはカメラがあるぞ」
と天井を指した。
だが、掴んだ手に一瞬動揺が走ったのは確かだ。
手を離さないまま、隅のドアを目指す。
こんな所でプライバシーが保てるのは、トイレくらいしかないだろう。
緊張で頭の芯がくらくらするのをこらえて奴を向く。
きっと今の俺は憎らしいほどの仏頂面なのだろう、奴のほうが及び腰に見える。
その証拠に
「ちょっとかがめ」
と言うと、思ったよりあっさりとかがんで俺と同じ高さになった。
その肩に手を置いて口付ける。
正直言って感触を確かめるとまではいかなかった。
残念ながら、人工呼吸のほうがずっと得意だ。
けれど髪に触れた時、昨晩のあれが夢でなかったのだと確信できた。
ちょっとかさついた、でも少しでも手入れをすればきっといい手触りになるだろう髪。
俺みたいに硬くない感触は、確かに昨日知ったもの。
次に会うまでに、そのことを何度思い出したことか。
あまり何度も思い出していたせいでその時にもちょっとした暗がりでついキスしてしまったが、あいつはやはり避けなかった。
その次も、また後も。
中学生のような、唇を合わせるだけのキス。
そんなものでも俺にとっては宝石だった。
もうこれだけでも十分だ。
そう思いながらも、その後は眠れぬ夜を過ごすのが常だった。
もやもやしたものをストレートに発散することは、俺には出来ない。
美食家でもないし、特別な趣味もないので唯一の代償行為はオペ。
俺は仕事に打ち込んだ。
あちこち飛び回っていれば、あいつに会えるかもしれないという淡い期待もあった。
もちろん、その後眠れぬ夜を過ごすことはわかっている。
恐ろしく破廉恥な夢を幾度となく見た。
男同士なら逆に俺でも繋がることは可能なのだ。
あいつに組み敷かれて喜び咽ぶ浅ましい自分に反吐を吐きそうになりながらも、こっそり拡張の真似事をした夜があった。
あまりの浅ましさに泣きたくなるのをこらえながら。
朝になると、ゴミをゴミ箱ごと焼き捨てたくなる。
それなのに、しばらくするとまた試した。
気持ちよさなんてあるわけない。
惨めな思いにさいなまれながら、こんなことしてどうするんだ、と思いながら、でも万一そんなチャンスがあったらたった一度でいい。
生涯一度の思い出が欲しいと思わずにいられなかった。
だが一番恐ろしかったのは奴を支配する夢だ。
奴を小さな部屋に押し込めてなぶり、反抗するのに鞭を当て、従順な犬にしようとあの手この手を繰り出す俺。
どんなになぶっても懐柔しようとしても決して頭をたれず、ただ黙って批判的な目を向けるあいつに俺はどんどん行為をエスカレートしていき・・・。
違う、俺はこんなの望んでいない。
夢を傍観するだけの俺が苦悩するのを見つめるもう一人の俺がいて、本当か? と聞く。
お前は奴を支配したい。
だが不能のお前にはこんな風にしか支配できないと本当はわかっているんじゃないか? と。
子供のようなキスしか繰り返せなかったのは、そんな夢のせいかもしれない。
こんなにキスを重ねても嫌がらないのだ。
俺が一度でいいから抱いてほしいとすがれば、相手してくれそうな気もしていた。
その程度には俺達の仲は親密になっていた。
けれどそれをした途端に俺達の間が不均衡になると知っていたから俺はそんなことしなかったし、奴も何も言わず、ただ幼いキスを続けていた。