嵐の後
その患者の家は辺鄙な場所にあった。
山の中の1本道をひたすら走っていく。
嵐のために視界が悪いので、周囲には気をつけているつもりだった。
だが飛び出してきた動物を引きそうになり、急ブレーキを踏んでしまう。
しまったと思ったときにはもう遅い。
タイヤが横滑りして後輪が片方道路の外に出てしまった。
地面に腹をつけた車はもう動けない。
それどころか、バランスを崩せば俺まで下に落ちてしまう。
助手席側のドアを苦労して開け、荷物を放ってからそろそろ抜け出す。
外に出て振り向くと、車は思った以上に危ういバランスを保っている。
運が悪いと思っていたが、この事故で無事だったのだから悪運はあったのかもしれないな。
そう己を慰め、臍を固めて歩き出す。
雨が冷たい。
30分ばかり歩いて体の芯まで凍えた頃、後ろからエンジンの音が聞こえてきた。
助かった。
道の真ん中に出、大きく手を振って車を止める。
運転席の窓に向かって
どこでもいい、電話のあるところまで乗せてもらえないか。
と言いかけて口を閉ざす。
「おやおや、さっきの車は先生のか。ここで恩をかけても仇で返されるだけなのかな」
開けた窓の奥にいたのはキリコ。
ドクターキリコだった。
「お前さん、行き先は?」
と問われ
「M氏だ」
と言うと、奴は大きくため息をつきつつ窓を閉めていく。
「おい、ちょっと待て」
と取りすがるが無常にも窓は閉まる。
壊してやろうかと思いながらガラスをバンバン叩いていると、後ろの座席をごそごそやっていた男が
「ほんのちょっとのお預けもできないのか」
とぼやきながらも助手席のドアを指さしてくれた。
助手席のシートに新聞紙が広げてある。
ああ、用意をしてくれていたのか。
「俺はなんてお人よしなんだ」
と嘆く男からタオルを受け取り
「患者と俺に誠実ないい男だよ、お前さんは」
と返しておく。
俺を見てしまったからには患者の意思を確かめずにいられないのだろう。
俺ならまず抜け駆けを考えるというのに。
「ブラックジャック先生、どうしたんですか、その濡れ鼠は」
と召使いに上着を受け取らせた依頼人は
「そちらの方は先生をお送りくださったのですか」
とキリコを見やり
「私はM様に直接ご依頼を受けたドクター・キリコと申します」
と言う男を胡散臭げに見ながら
「ご用件は?」
と問いただした。
「依頼人への守秘義務がありますので」
と受け流す男を指差して
「こいつは殺し屋だ」
と叫んでやりたいが、さすがにさっきの借りがあるのでそこは我慢。
ただしこいつが患者に会う時は一緒というのが俺の譲歩の限界だ。
患者はかなり難色を示した。
「ドクター、なぜあなたは人助けなどせずそのまま1人で来なかったのですか。それなら私は思い惑う必要などなかったのに」
とキリコをなじる。
だが男は動じない。
「残念ですが事故現場を見た直後で、まさかそれにこの男が乗っているとは思いませんでした。しかも行き先までが一緒とは。
私だとてあなたの依頼にお応えしたいのですよ。せっかくここまで来たのですしね。
ですが会ってしまったのでは仕方ない。
まずはあなたのご意思を伺いたいと思ったのです。
何しろ私の処置をした後でしまった、と思われても元に戻すことはできないのですから」
静かに話しかける男の声は俺の上ずった気持ちまで落ち着かせるようだった。
「もしあなたがお望みなら、もちろん私がきちんと処置いたします。ですが今のお言葉だとまだ未練がおありのようだ。
先にいただいた半金はお返しできませんが、3日程度なら私もお待ちできますよ」
と言う奴の後ろから1歩進み、今度は俺がオペの説明をする。
確かに根治は難しい症例で、3年ほどで再発の危険がある。
だがオペ後に適切なリハビリをすれば生活の質は格段に上がり、外出も可能になるだろう。
しばらく黙って考えていた患者は、しまいに
「お願いします」
と俺に頭を下げた。
「年頃になる孫がいる。もしあの子の行く末を本当に見られるなら」
と。
「ですがキリコ先生。私は希望が絶望に変わるのが怖いのです。
ほかの医師はみな私の病巣の位置が悪いという。手術などしても、余計に苦しいむだけだと。
もし手術が失敗したら、その時は」
失敬な物言いだったが、腹は立たなかった。
俺が全力を尽くして、奴の出番をなくせばいい話だ。
それだけのこと。
念のため翌日最終検査をして、その次の日オペをすることにする。
翌日の検査結果は、正直思わしくなかった。
患者にはオペ出来るぎりぎりの体力しか残っていない。
執刀時間を最小限に出来るかが成功の鍵だが、難易度の高い場所なのだ。
だが、患者に生きたいという気持ちがあれば何とかなるだろう。
検査結果を手に患者のもとへ向かう。
半開きのドアから患者の声がするのでそっと伺うと、あの男が患者の枕元にいた。
声が小さいので何を話しているかまではわからないが、時々男の頭がうなずくように動くのがわかる。
朝からずっとだ。
検査にきた時にも奴がいたし、検査の後もすぐ呼ばれていた。
何を話しているのか知らないが。
このままいても仕方ないので軽くノックして中に入り
「手術の説明をしたいのですが」
と言うと、キリコが身軽に席を立ち、俺に譲って部屋の隅に陣取った。
外に出る気はないらしい。
居心地の悪さを感じながらも患者に病状を説明する。
患者はいざ知らず、奴にはこのオペがどんなに危ういかわかっただろう。
だが男は最後まで口を挟まず、只聞いているだけだった。
患者の話を聞いていたときのように。
部屋に戻る。
俺達の寝室は隣同士だった。
外からは完全な個室同士だが、共通のバスルームが真ん中にあり、どちらからでも利用できる様になっている。
つまり両側の部屋からのドアがあり、自分が使う時は相手方のドアの鍵を閉める。
そうすれば相手も使用中がわかる仕組み。
合理的なつくりだ。
昨日はびしょぬれだったので先に風呂を使わせてもらったが、今日はどうしようか。
迷ってドアの内側からノックするが、返事はなし。
ノブを回すと、そのまま開いた。
男はちょっと横になっただけ、という風情でベッドの上にいた。
声をかけようと近づいて、止める。
熟睡していた。
たいしたこともしていないのに、と思うが、患者の愚痴でも聞いて疲れたのかもしれない。
昨日の恩があるので足元の毛布をかけてやり、バスルームに戻る。
風呂に入って俺も寝よう。
翌日のオペは、うまくいった。
途中危うい場面はあったが、持ち直したのは患者自身に生きたい気持ちがあったのだろう。
経過観察を主治医に任せて部屋に戻る。
そのままベッドにダイブ。
ふと目覚めると、外は真っ暗だった。
誰かが来たのか、小テーブルの上にサンドウィッチとワインが載っている。
飲みかつ食べて満足し、浴室に行く。
面倒だけど、汗は流したい。
洗髪をし、体を洗い、泡を流して栓をし、湯を張る。
浴槽になるべく体を突っ込んで寒さに震えるこの間を何とかして欲しい。
いや、日本以外で日本みたいな入り方をしてしまう俺が悪いのはわかっている。
けど、やっぱり俺は溜めた湯の中でシャンプーしたり体をこすり、垢まみれの汚い湯で暖を取るのは嫌なのだ。
いくら最後にシャワーで流せばいいと言ってもな。
ああ、でも寒い。
風邪ひきそう。
ようやく全身浸かれるだけの湯が溜まっても、表面積が広い為すぐに冷めていくのも困ったことだ。
仕方なく、熱いお湯を少しだけ入れ続けて湯に浸かる。
ありがたいことにこのバスタブ、日本製のように上のほうに排水口があり、そのままあふれないようになっている。
普段ならこういうことはしないが、オペが成功したときくらい、ささやかな贅沢をしたいもんだ。
久々に日本のような風呂にうっとりする。
そのままうたた寝をしてしまったらしい。
湯が鼻に入ってきたのにあわて、しばらくばしゃばしゃ騒いだ後で浴槽の端を掴む。
体を起こそうとしたが、のぼせたのか一向に力が入らない。
何とか体を引き起こすのには成功したが、風呂の縁をまたいだところで床に落ちた。
「何騒いでるんだ」
寝ぼけ眼のキリコがやってきて床に伸びている俺を見つけ
「そんなところで体も拭かずに寝ていると風邪ひくぞ」
と言った後、床を見て
「あーあ、ここ日本じゃないんだから、これだけ濡らしたら水漏れしたかもよ」
とあきれた声を出した。
「のぼせたんだ。そんなことよりバスタオルくれ。ついでに手を貸してくれ」
と言うと
「それが人に物を頼む態度か」
と言いつつ手を貸してくれた。
そのまま肩を貸してもらってよろよろ歩く。
何とかベッドに乗り上げてほっとため息をついていると、いなくなっていたキリコがバスタオルを持って戻ってきた。
なすすべも無く体を拭いてもらいつつ、なんだかこんなシチュエーションが今までにもあったような気がすると思い、唐突に先日の醜態を思い出した。
いや、醜態と言ってもほとんど覚えていないのだ。
ただ、朝になったら同衾していただけで。
ただ、少々あらぬところが痛かっただけで。
こいつだってそうだったはずで。
だから朝、お互い悪い夢を見たことにしたのだ。
そしてすっかり忘れていた。
いや、頭が思い出すのを拒否していたのかもしれない。
こいつは覚えているのだろうか。
と思ったところで男は俺の一物を握り、裏にひっくり返して
「なんだ、もうサインは消えたのか」
と言った。
「お生憎様。あんなマジックすぐに消えるさ」
と憎まれ口を利きつつ、こいつはどこまで覚えているのかとふと思う。
ま、覚えていたとしたって脅迫にならなければいいわけだし、よしんば芋虫の恥ずかしい写真を撮られていたにしても特別な脅迫にはなるまい。
ウン、大丈夫。
1人頷いていると、キリコが突然
「はい、牛の乳絞りをします」
と言ったかと思うと輪にした人差し指から中指、薬指、小指の順にぎゅーっと絞っていった。
ギャー。
思わずわめいて手を掴むと振りほどく。
涙目で
「なにするんだ」
とわめくと
「お前さんがあんまりふてぶてしいから」
と言って去っていった。
なんだそりゃ。
俺がふてぶてしいのはいつもだろうが。
痛みのせいで逆に体がしゃんとしたので、下着を着て無事布団に包まる事が出来た。
疲れているはずなのに、すっかり眠気が引いてしまった。
奴は俺より覚えているんだろうか。
あの夜、どんなことをしたんだろう。
覚えていない。
思い出せない。
だからたいしたことじゃない。
オペ直後の昼寝がたたっているのか、一向に眠くならない。
明日の為に寝ておかなくては。
思えば思うほど眠れなくなる。
あいつはもう寝ているのだろうか。
あの時の固い腕枕を思い出し、一瞬懐かしく思った頭を一つ殴ると、俺は真剣に羊を数えることにした。
7周年、ありがとうございます。
これからも相変わらず2人を書いていければいいなと思っています。
よろしくお願いいたします。