世界一の名医

 

 午前3時。

 病院の裏手にある職員専用通用口から出てきた奴は、やはりいつもとはどこか様子が違っていた。俯いて、重い足をひきずるようにして、のろのろと駐車場の方へ歩いて行く。10メートルほど後ろから別に足音を消すでもなくついていく俺にも、まったく気付いている気配がない。

 ちッ、隙だらけじゃねェか、天下のブラック・ジャック先生よ。

 

 ゆっくり後をつけながら、俺は今夜の出来事を思い返した。

 

 

 たいした事件もなく、なんとなくダラダラと居残っていた刑事部屋。短い冬の日はもうとっくに暮れた。腹も減ったしそろそろ帰ろうかと思っていたとき、外から帰った若い奴が報告に来た。

「友引警部、例のモグリ医者が街中病院で手術しているそうですよ」

 街中病院といえば、うちの管轄区域にある一番大きな病院だ。そして例のモグリ医者といえば奴しかいない。

 ブラック・ジャック。

「している……って、今やってるのか」

「ええ、街中病院の医者では手に負えないからというので内緒で呼ばれたようです。なんでも朝からずっとやってるとかで。大手術らしいですよ」

「へぇ……」

 思わず腕時計を見る。午後7時。病院が朝の何時から手術をするものなのかは知らないが、まあ10時間くらいはやってるってことか。

 吸っていた煙草を灰皿にもみ消して立ち上がると、椅子の背にかけていたくたびれたコートに腕を通した。

「行きますか?」

 若い奴が意気込んで尋ねてくる。

「行くって、どこへだ?」

「嫌だな、街中病院ですよ。しょっ引きに行くんでしょ。とりあえず身柄だけ押さえておいて、あとから医師法違反容疑で令状を取るわけですね」

「あのな坊や。あいつはそんなことでお縄にできるような玉じゃねェんだ。俺は家に帰るんだよ。わかったふうな口きいてねェでお前ェもさっさと帰んな」

 血気盛んな若い部下の肩をポンと叩く。今夜の当直に当たっている警部補に「お疲れさん」と声をかけてから部屋を出ると、後ろから「そんな〜〜」という情けない声と警部補の笑い声が聞こえた。

 

 コンビニでちょっとした買い物をしてから、そのまま真っ直ぐに街中病院へ向かった。手術室のある階でエレベーターを降りて、それから……。

 あれから何時間たったろう。

 

 

 奴の車は、外来用駐車場の一番奥まった隅に止められていた。この時間になると、駐車場もがらがらだ。

 奴がやっと自分の車にたどりついてキーを差し込んだとき、俺は間合いを詰めた。さすがに足音に気付いたのか、奴が振り向いた。しかし、俺の顔を見る奴の目はどこか焦点が合っていない。

 畜生。しっかりしろよ、ブラック・ジャック!

 

「久しぶりだな」

 精々凄味を効かせて話しかけた。ニタリと口の端だけで笑ってみせるとやっと我に返ったようで、紅い瞳にサッと警戒の色が浮かんだ。

 そう、それでいい。俺の前ではその目付きを忘れるな。

「友引……警部」

「覚えていてくれたかい。光栄だな」

「……」

「仕事したんだってな」

 上着の内ポケットから取り出した煙草に火を点けると、奴に向かってわざと大きく煙を吐いた。

「私を……捕まえに来たのか」

 嫌そうに目を閉じて顔を背けながら奴が言う。間近に見るとずいぶん顔色が悪い。

「さあな。お前さん、捕まえてほしいか?」

 奴は俺にチラリと冷たい視線をくれると、無言でドアを開けて運転席に乗り込もうとした。

「まあ待てよ」

 腕を捕まえると後部ドアを開けて奴を中へ放り込んだ。頭からシートに突っ込む形になったのを更に奥に押し込むと、手前に空いたスペースに自分も乗り込んでドアを閉める。

「何なんだあんた。なんのつもりだ!」

 体勢を立て直した奴からさっそく抗議の声が上がる。当然だな。俺はぶら下げていたコンビニの袋を奴の目の前に突き出した。

「食えよ。腹減ってんだろ。肉まん、もうすっかり冷めちまったけどな。まさかこんなに長くかかると思わなかったんだから仕方がねェ。それに、食ったらここで少し仮眠を取って行け。いま運転したらお前、事故るぜ」

 

 しばらく、コンビニの袋を挟んで睨み合う。視線を逸らしたのは奴のほう。俺に背を向けるようにシートにぐったり寄りかかると、目の前の窓ガラスに視線をさまよわせた。

「何か……知っているのか、警部」

「たいしたことじゃねェがな」

 どうやら食う気はないらしい。コンビニの袋を運転席に落とすと、俺もシートに深く座り直して煙草に火を点けた。車内禁煙じゃないよな。

 ゆっくり吹かした1本がまるまる灰になるまで、奴は黙っていた。向こう側の窓ガラスに映る奴の顔をそっと窺うと、固く目を閉じている。もしかして寝ちまったのかと思い始めた頃、奴が口を開いた。

「どこまで知っているんだ」

「だから、たいしたことじゃねェよ。今日お前がこの病院で手術をして、それが成功したっていうところまでだ」

「それで? あんたは何がしたいんだ。何の用だ」

「さぁて、そこんところが俺にもよくわからねェんだが。何となく、ひとりごとを言いたい気分なんだ。付き合えよ」

 それを聞いてガバと身を起こした奴は、俺の胸倉を掴むと呻るように言った。

「ふざけるな! 私をからかいに来たのなら……」

「手術、誰も手伝わなかったんだってな」

 至近距離から奴の目に視線を合わせて、静かに、だがキッパリと言い切ってやると、奴の動きがぴたりと止まった。見開いたままの紅い瞳が俺の顔を映して哀しげに揺れる。だから、そんな目をするなって。

 コートの襟から奴の手をそっと外すと、俺はまた前方に向き直り脚を組んだ。気のないふうに煙草を取り出して2本目に火を点ける。ふと気がついて、俺をじっと見つめたまま固まっていた奴の唇にそれを押し付けてやると、条件反射のように咥えた。不良医者め。

 新たに自分のために3本目を取り出して火を点けた。奴は唇に煙草をはりつけたままシートにドサリと背を預けると、ぼんやりと前方に目をやった。フロントガラス越しに見えるのは、水銀灯に照らされた貧相な植木だけだったが。

 2本の煙草から立ちのぼる紫煙がだんだん車内に充満してくる。でも外は凍てつく寒さだから、換気しようという気も起こらない。それに、こんなヤニ臭い空気のほうがむしろ俺には居心地が良い。奴の身体からわずかに香った消毒薬の匂いを消す勢いで、ばんばん吹かしてやった。

 

 更にもう1本を灰にしてから、俺はおもむろに口を開いた。何も言わない気なら、俺のひとりごとでも聞いてろ。

「手術室の前に医者や看護婦がタムロってたから、手帳をちらつかせながら言ってやったのよ。『ここの病院では無免許の医者に手術させるのか』って。そしたら油断のならねェ目付きをした権高そうな婆ァ看護婦が『執刀しているのは当病院の医師ではありません。手術室と機材を貸しているだけで、この手術には当病院のスタッフは一切関与しておりません』って、キンキン声で食って掛かってきやがった」

 女もああなったらお終いだよな……と言いながらちらりと隣を見ると、奴は俯いて、両腕で自分の身体を抱え込むようにしている。

 寒いのか?

「『ここの医者じゃあ手に負えないから呼んだんだって聞いたぜ』って言ったら、今度は一番エライさんが出てきてな。まあ、誰かが呼びに行ったんだろう、なんとかいう外科部長だった。こんな所で騒ぎは困るとか、令状は持っているのかとか、まあ散々横柄な口をききやがった」

 おいブラック・ジャック、聞いてるか?

「そんなもん持ってやしねェ。けど、成功したら病院の評判が上がる、失敗したらお前一人のせいにする、自分達は高みの見物でどっちに転んだって傷つかねェなんて、そんな虫のいい話があっていいわけねェ。腹が立ったから、『証拠隠滅は精々念入りにするんだな。令状取ってまた来るぜ』って言ったら、奴さん真っ青になりやがった。ふん。……お前、いつもあんな奴らに利用されてるのか」

 奴は俯いたまま動かない。

「仇はいずれ討ってやる。だから、そんな面子や何かで手術をボイコットするような医者連中に嫌われたからって、そんなに落ち込むこたァ……」

「……違う。そんなことじゃない」

 奴が低い声で遮った。

「……?」

「嫌われたり、恨まれたりすることには慣れている。今さらそんなことは、なんでもない。俺はただ……怖かったんだ」

「……え?」

「怖かったんだよ、警部。患者が、死んでしまうんじゃないかと思って……。俺が一人で手術をしたことで、患者を死なせてしまうんじゃないかと思って……」

 奴は、手術中のことを思い出したのか、大きくぶるっと身体を震わせると、より一層強く自分の身体を抱きしめた。

 

 そうか。

 お前は患者のことしか……。

 

 俺はやにわに左腕を伸ばすと、奴の頭を胸に掻い込んだ。

「何する……やめろ」

 奴は咄嗟に逃れようともがいたが、放すもんか。

「俺が寒いんだよ。湯たんぽ代わりなんだからおとなしくじっとしてろ」

 そう言うと、奴はやっと抵抗を諦めて俺の腕の中に納まった。徐々に身体のこわばりが解けていく。奴の吐く息が当たる胸が熱い。おさな子を寝かしつけるときのように、背中をトン、トンと叩いてやる。お前の今夜のねぐらはここだ。

「……難しい手術だったんだ」

 俺の安物のネクタイのあたりからくぐもった声がした。俺は奴のツートーンの髪に顎を乗せて答える。

「お前が呼ばれるくらいだから、そうなんだろうな」

「ルーペをつけて患部に神経を集中させていると、バイタルチェックが疎かになる。あッと思ったときには、脳波が乱れてる。呼吸が止まってる。心臓が止まってる。みんな出て行ってしまって、手術室の中には俺しかいない。もうどうしていいかわからなくなって……、患者の命が、俺の指の隙間からこぼれ落ちていくような気がして……、怖くて……、怖くて……」

 奴の身体がまたカタカタと震えた。俺は左腕に力を込める。止まれ。止まれ……。

 手術室の中で、こいつはたった一人で必死に戦っていたのだろう。

 俺が廊下ですったもんだやっていた最中も。

患者の命の炎が消える瞬間に怯えながら。

 戻って来いと祈りながら。

 死なないでくれと叫びながら。

 17時間もたった一人で。

 

そしてお前はその戦いに勝ったんだ。

 

「よくやったな。お前さんはやっぱり世界一の名医だぜ」

 奴の身体を軽くゆさぶりながら俺は言った。奴は掠れた声で「バカヤロウ」と言った。何がバカヤロウなのかは知らない。それからしばらくの間、肩が不規則に震えていたが、やがてそれも静かになった。

 その身体からはやっぱり消毒薬の匂いがした。

 

 

「おはようございます、警部」

 署に向かって歩いていると、昨夜の若い奴が後ろから追いついてきて俺に声を掛けた。

「ああ、何だお前。来る方向が違うじゃねェか」

「街中病院へ寄って聞き込みしてきたんですよ。例のモグリ医者の手術、成功したみたいです。残念でしたね」

「何が残念なんだ」

「だって失敗してたら今度こそふん縛って……あ痛!」

 俺は頭を思い切り引っ叩いた。

「そんな不謹慎なこと言うもんじゃねェ!」

「あ、そうか……。すみません。でも、このまま野放しにはしておけませんよ。無免許のくせしやがって。医者の風上にも置けない……あ痛! ちょ、警部、今度は何です!」

「あいつほど医者らしい医者は世界中探したっていねェんだよ、このうすらとんかち! それより、外科部長のなんとかいうヤブ医者の過去の医療ミスを探してみろ。きっとゾロゾロ出てくるぜ」

「はあ?」

 往来でみっともなく大口開けてるんじゃねェよ。まったく、朝っぱらからこんな阿呆面に付き合わなくちゃならねェとは……。は……、は……、

「ハックショーーン!!」

「あれ? 警部、いつものコートはどうしたんです? 着てませんね」

「ふん。もったいなくて、そんなことお前に教えられるかよ」

「はぁん、さては昨夜どっかの飲み屋に置き忘れ……あ痛! もう、何なんですいったい!」

 

 

俺のくたびれたコートは、駐車場の片隅、車の後部座席で眠る世界一の名医の上に掛かっている。

 

 

 

これはわかば様の初の創作物です。

わかば様の本当に読みたい話を伺った後、ぜひその話を書いて欲しいとお願いしたところ、それとは別のこの話を書いてくださいました。

発表するつもりはない、とおっしゃるのを是非にとお願いして頂いたものです。

 

この風合い、感触が原作の世界そのもので思わず引き込まれてしまいます。

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