ホテル・グリコーゲン 〜看板は偽りだらけ〜
木戸に掛けられた「ホテル・グリコーゲン」という小さな手書きの看板を見つけたときには、心底ホッとした。
最寄りの○○駅から徒歩10分というから予約したのに、それらしいホテルどころか人家の1軒も見当たらない山の中。
日が暮れて辺りは暗くなってくるし、腹は減るし。
携帯で確認しようとしたが、無情にも出るのは「圏外」の文字ばかり。
遠くの木立の間にかすかな灯りが見えたので、そこで電話を借りることにして、およそ獣以外は通らないと思われる山道をウンウン言いながら登って行ったら、そこが件のホテルだったというわけだ。
ここのどこが駅から10分だって言うんだ。
俺は1時間は歩いたぞ。
しかし……
ここは本当にホテルなのか?
俺の岬の家のほうが数倍立派だ。
何かきっとロクでもない目に遭いそうな気がして、まるで牛舎の入り口のような玄関の前でしばらく逡巡したが、今からあの獣道を引き返すのも願い下げだ。
暗い中ですべったり転んだりして、これまたとんでもない目に遭うに違いない。
ええいままよと覚悟を決めて、ガタガタとなかなか開かない木戸を開けて恐る恐る中を覗き込んだ。
昔の農家のような造りで、中は土間だ。
部屋へ上がる境目に折りたたみ式の小さなちゃぶ台のような机が置かれていて、どうやらそこがフロントらしい。
ホテルの人とおぼしきおばさんが先客らしい男と話をしていたのだが、そいつを見て驚いた。
「キリコ!?」
「ブラック・ジャック、なんでおまえが!?」
しばらく双方あっけにとられたが、今は喧嘩をする気分じゃない。
とにかく早く部屋へ落ち着きたかったから、キリコを押しのけて、おばさんに
「電話で予約した者だが」
と申し出る。
するとおばさんは
「あ〜らら〜困ったわのさぁ〜〜」
とのんびりと言う。
何が困ったっていうんだ?
「たった今満室になってさね〜〜、この人で」
とキリコを指す。
だって俺は電話で予約したじゃないかと言うと、
「この人も電話で予約してたのさよ〜〜」
と悪びれもせずに言う。
ダブル・ブッキングってことか?
というか、あんたのそれはどこの言葉だ?
「じゃあ俺は部屋へ行くからな。悪く思うなよブラック・ジャック」
と行こうとするキリコのコートの裾をしっかと掴まえる。
「待て。冗談じゃない。それは俺の部屋だ」
「俺の部屋だよ、ブラック・ジャック先生。1時間も歩いてやっと辿り着いたんだ。譲る気はないね。おまえは別のホテルでも探すんだな」
「こんな山の中に他のホテルがあると思うか。俺だって1時間歩いたんだ。待てったら待て。なぁそこのおばさん、どう責任取ってくれるんだ。そっちのミスで俺を追ん出す気か、え?!」
とスゴんだら、
「相部屋にすればいいのさよね〜〜」
と嬉しそうに言う。
「「 断る!! 」」
疲れと意地のせいかここだけは気が合って、二人で怒鳴った。
相部屋になった。
土間からすぐの四畳半だった。
普段はこの家の3人の男の子の部屋として使われているらしく、壁と言わず畳と言わずいろんな絵が描かれていた。
この部屋をキリコと取り合っていたのかと思うと心底ナサケナクなった。
近年、客が泊まったという形跡などこれっぽっちもない。
ホテルとは名ばかりの民宿のようなものだ。
それもとびきり狭い。
俺たちの部屋を除けば、トイレや風呂場や台所の向こうに、ここの家族の部屋がひとつあるだけ。
今夜はそこで一家5人が寝ることになるらしい。
どうしてそんな状況でダブル・ブッキングなどという事態が起こるのか、不思議だ。
それもキリコと。
夕飯はそこの一家全員と一緒に食べた。
というか、俺たちの部屋へ皆が箸と茶碗を持って押しかけてきたのだ。
どうやら卓上コンロが一つしかなかったらしい。
猪鍋ということで、この家の旦那さんが山で捕ってきた猪の肉や大根、その他俺には名前もわからないいろんな山菜を鍋に入れて味噌仕立てにしたもので、これが掛け値なしに美味かったものだから、俺とキリコの機嫌もすっかり良くなった。
「おばさん」なんて呼んで悪かったから、これからは「グリコさん」と呼ぶことにしよう。
旦那さんは「グリコおじさん」だ。
「布団を敷くあいだ、温泉でも入るのさよ〜〜」とグリコさんが言う。
温泉、と聞いて俺は俄然はりきった。
そういえば、さっきトイレに行く途中に、外へ通じる木戸があって、そこに「露天風呂」とかすれた文字で書いてあるのを見かけた。
キリコは「温泉大浴場」の方で良いと言う。
説明するまでもないが、それはただの家庭用の風呂場だ。
せっかく露天風呂があるというのに、なんて欲のない奴だ。
俺なら1泊で最低でも3回は入るのだが。
「温泉大浴場」へ行くキリコと別れて、俺はこれまた建て付けの悪い木戸を開けた。
淡い月明かりが、奇岩で囲まれた水面にキラキラ反射していてなかなか風情がある。
大急ぎで服を脱ぎ捨てると、俺は走り出て水音も高く飛び込んだ。
池だった。
足元を大きな鯉が右往左往している。
ふつう露天風呂には鯉なんか泳いでいない。
そういえば、食事のときにグリコおじさんが鯉の養殖をしているとかなんとか言っていたような。
ここか。
すごすごと池から這い上がって家の中に入ろうとしたが、さっき俺が変なふうに閉めたのか、木戸が頑として開かない。
なにしろ俺は素っ裸だ。
こんなところを誰かに見られたらと思うと気が気じゃない。
なんとか木戸自体をレールからはずして開けて、キリコのいる「温泉大浴場」へ駆け込んだ。
キリコは窮屈そうに小さなバスタブに浸かっていたが、俺を見て
「へぇ、露天風呂より俺のほうがいいのか」
などと不敵に笑う。
そんなんじゃない!
池の水で冷えたり木戸と格闘して大汗をかいたりで、寒いんだか暑いんだかわけのわからないことになっている身体を無言でガシガシ洗っていると、バスタブから出たキリコが背中を流してくれた。
「ここの露天風呂には金魚藻が生えてるんだな」
面白そうなキリコの声。
畜生、バレたか。
キリコと一緒に部屋まで戻ると、ちゃんと布団が敷いてあった。
ただし、一組だ。
俺は思わず固まったが、キリコは
「なるほどなぁ、元々一人用の客室なんだから布団だって一組しか用意してないんだよなぁ」
と納得している。
納得しないでほしい。
おまけに枕元には水差しとコップ、ご丁寧にティッシュの箱まで置かれている。
グリコさん、何か期待したりしてませんか?
キリコも同じことを考えたのか
「こりゃあ、ご期待には応えなくちゃな」
と言うなり、俺を布団に組み敷いた。
その後のことは俺はあんまりよく覚えていない。
期待に沿えなくて悪いね、グリコさん。
翌朝、妙に嬉しそうなグリコさんに見送られて、俺たちは「ホテル・グリコーゲン」を後にした。
これから更に山深いところに住んでいる古い知り合いを訪ねると言うキリコとは、獣道の途中で別れた。
いつもの商売道具を持っていなかったから、今回は仕事絡みではなさそうだ。
今度暇ができたらピノコを連れてきてやろう。
3人の男の子達とも良い友達になれそうだ。
そんなことを考えながら、俺は俺を待つ患者の家へと急いだ。
後日、俺のところに「カッパのお宿 ホテル・グリコーゲン」から手紙が届いた。
宿泊したことへの礼とともに、あの夜カッパが出たらしいと書いてあった。
鯉の池から家の中まで水の跡が残っていた、お客さんに被害がなくて本当に良かった、と。
ごめんよグリコさん、それは俺の仕業だ。
最後に追伸として
「客室を改築して壁を厚くしたから、また来てちょうだいのさよね〜〜♪」
と書かれていた。
……もう二度と行けない。//////
なんとわかば様が2周年記念にまた素晴らしいお話を書いてくださいました。
その名も「ホテル・グリコーゲン」。
だんなと3人の子供つきです。
4畳半に7人ぎゅうぎゅうで鍋をつつけるなんて、なんて幸せなのでしょう。
きっと夜半グリコはグリコおじさんと「結構お盛んさなあ」「壁をもうちっと厚くしないと」などと話しつつ、突然夜泣きする子供に「あれはなまはげでねえから安心して寝のさよね」と言っていたのでしょう。
わかば様、楽しいお話を本当にありがとうございました。