運動会(上)
明日はピノコの運動会だ。
もう結構前から、うちのカレンダーというカレンダーにはこの日に大きく丸がつけられ「うんどうかい」と幼い字で書き込まれていた。
おかげで直前に入った急患も今日のうちにオペをし、手塚病院に送ったのだ。
俺はもうバテバテだが、彼女は楽しみにしているのだし、たまには家族サービスもするべきだろう。
彼女は楽しそうに明日の用意をしている。
うまそうな匂いがするから夕飯かと楽しみにしていたが、すべて明日の弁当なのだそうで、今日の夕飯はボンカレーだった。
彼女曰く
「ご馳走の前は楽しみにしておくのがおいしいの」
だそうだが、これでは蒲焼屋の前で匂いをおかずに白飯を食っている様なものだ。
ちょっと位味見したっていいと思うのだが。
そりゃあボンカレーも好きだけれども。
「先生、はいお手紙。あとこれがプログラムよ」
と数枚の紙を渡される。
プログラムの表紙にはかけっこをする子ども達が印刷されている。
それに下手なクレヨンが塗ってあるのはピノコの仕業か。
「今日、みんなで塗ったの。先生、ピノコちゃんいろんな色を使ったのねってほめてくれたのよ」
という彼女の頭をなでながら、18才と言ってもまだまだかわいいな、と思う。
確かにいろんな色を塗ってあるが、空が黄色と紫のシマだったり子どもの顔が赤や青だったりと、かなりサイケディリックな感じだ。
先生ってすごいな、いろんなほめ方を知っていて。
俺なら色盲検査をしてしまいそうなのに。
手紙には当日の注意事項が書いてあった。
持ち物のこと、園内では禁酒禁煙です、門を出たところに喫煙所がありますが、お酒は門の外でも飲まないで下さい。
などという注意を流し読みしていたが、下線のある注意書きで目が留まった。
曰く
園庭は6時に開門しますので、場所取りはそれ以降にお願いします。
6時前に敷かれた敷物は撤去します。
6時!?
またすごい注意書きもあったものだ。
たかが子どもの幼稚園の運動会に浮かれた奴もいたものだな。
大体場所取りをしてまで何をしたいというのだろう、と半ば呆れていると、チャイムが鳴った。
ドアの外にいたのは、手塚だった。
患者が急変でもしたのかと思ったが、さにあらず。
家庭的なこの男、さっきピノコと雑談した時に明日の運動会を知り、なんとビデオカメラを持ってきて貸してくれると言うのだ。
こんなものを俺に撮れと言うのか!
何を考えているんだ、お前さんは!
怒りで1メートルは飛び上がり、わめく。
今まで写真すら撮らない俺に、何を考えているんだ。
「じゃあせめて写真の1枚でも撮ってやれよ」
と言われ、まあ写真くらいなら…と口ごもったら、ピノコが満面の笑みでカメラを出してきた。
俺、謀られたのだろうか?
テーブルに置きっぱなしだった手紙を見つけた手塚が
「BJ、君は何時頃に並ぶつもりかい?」
と聞く。
「何がだ?」
と尋ね返すと
「場所取りだよ。6時開門と言っても10分前には並ばないといい場所がなくなるぞ。写真を撮るなら、せめて2列目までに敷かないと前が邪魔になるからな」
とさすが子持ちの経験者、わけのわからない薀蓄満載だ。
「そこまでしなくていいだろう」
と呆れるが、世の親と言うのはどこまで親ばかなのだろうか。
あ、目の前にも親ばかの見本がいたか。
俺はやらんぞ、という気分満々の俺に
「先生、そこまでしなくていいよ。場所が取れなくても、お昼の時間には体育館も開けてくれるからご飯も食べられるもん」
とピノコが言った。
こういう風に下手に出られると…いや、そんなことするもんか。
親ばかは
「ピノコちゃんはけなげだなあ」
と大げさに感激しつつ帰っていった。
翌日、なぜか俺は5時に目が覚めた。
別に目覚ましなんか、かけてない。
なんとなく目が覚めてしまったのだ。
ついでだからちょっと早朝ドライブでも楽しむか。
片手に敷物が入った袋を掴んでいるのに目をそらしながら呟いてみる。
本当に、何で目が覚めたかな。
幼稚園の近くに行くと、なぜか車が渋滞していた。
え、まだ5時半だぞ。
まさか、と思ったが、渋滞は園の駐車場まで続いていた。
信じられないことに、門の周りに人だかりが出来ている。
俺、場所取りなんか出来るんだろうか。
やはりと言うか、俺は戦いに勝てなかった。
どうしても人目をはばからずにダッシュする、ということが出来なかったのだ。
我武者羅に、目の色変えて、というのは仕事の時にすべきであって、こういう時にするもんじゃないだろう、というテレが俺の中にあるらしい。
せっかく早目に来たのに、俺の後ろに並んでいた奴らまでもが俺の目の前でシートを広げてしまい、立ち往生する。
それでもここまできたのだから、ときょろきょろしていたら、1箇所だけ空いていた。
ええと、滑り台の下だけど前から2列目だし…いいかな。
弁当なんかを置く場所としてならいいよな。
いいことにしてそそくさと敷物を敷き、こっそり家に戻る。
そっと中に入ろうと思っていたのだが、ピノコはすでに起きてお茶などを詰めていた。
「先生、もしかして場所を取ってくれたの?」
と満面の笑みを見せるのに
「とりあえず弁当を置くだけのスペースを確保しただけだ。狭いから、食べるのはホールになるぞ」
と釘をさす。
それでも浮かれた様子の彼女に、なんとなくこっちも心が浮き立ってくる。
運動会か。
俺にとって運動会は中止になって欲しい行事の最たるものだったけれど、もしかして幼稚園の頃にはこんな風にうきうきしたりしたんだろうか。
正直、事故の前の記憶はほとんど飛んでしまっていて、良く覚えていないのだが。
運動会は9時開始なので、その前に着く様、車を走らせる。
結構ぎりぎりになったから渋滞しているかな、と思ったがそれほどでもなくスムーズに駐車場に入り、車を置く。
何故スムーズだったかは、中に入ってわかった。
俺たちのように時間ぎりぎりに来る家族なんてほとんどいなかったのだ。
ピノコの幼稚園の運動場は結構広い方だが、それでもぎりぎり直線で50メートル走ができるくらいだ。
その狭い運動場の周りにびっしりと敷かれた敷物の波。
その上でぎゅうぎゅう詰めに座る両親や祖父母、兄弟たち。
トラックの中を縦横無尽に走り回る園児たち。
運動会ってこんなものだったっけ。
放送の合図で子ども達が整列すると、運動会の開始だ。
園歌を歌い、校長先生が
「皆さんがんばりましょう」
と言い、トロフィーの返還をし、代表の選手宣誓が済めば開会式は終わりだ。
来賓の挨拶が一切ないところが潔い。
それからおさかな体操をして、退場。
こんな最初から写真やビデオを構える親の多さにびっくりする。
席から撮っている親もいるが、大概の親は場所を移動して正面に鈴なりになっているのだ。
こんなの、ただの前座なのに。
大体一番大きいか小さいかでなければ、子どもの場所すらわからないじゃないか。
ま、確かに見ているうちに俺もピノコを見つけたけれど。
プログラムの始めはかけっこ。
それとともにビデオとカメラの大移動が始まる。
どうやらゴール裏がにわかビデオマンたちの聖地らしい。
俺はと言うと、最初から戦線離脱だ。
どうせかけっこなんて一瞬のうちに走ってしまうんだから、写真なんかまともに撮れる筈がない。
俺の前の席は友人を呼んで撮影会を開くようだったので、外側で立ち見することにする。
こんなことなら、やはり場所取りなどしなくても良かったかもしれない。
タバコも吸いたいけれどその間にピノコが走ったら困るしな、としばらく見ていたら、これは案外面白い。
最初は年少組の背の小さい順だから、まだ頭に殻を被ったようなよちよち歩きが走ってくる。
一応4人ずつ走るはずだが、大体1人は遅れて先生に手を引かれてやってくる。
スタートの合図に間に合わなかったり、靴が脱げたり、なぜか親のいるほうに走ってしまって先生が連れ戻したり。
年中も小さい子は早生まれなのか、そんな子が多いが、途中からスピードがぐんと増す。
「走る」とは両足が浮いている状態があること、という定義を聞いたことがあるが、年中はちゃんと「走って」いると言える。
年長は、放たれた矢のようだ。
勿論、伸びきったゴムみたいな奴もいるが、どの顔も楽しそうに走っている。
逆に転んで泣く奴は、顔中口だ。
園の中には障害児が数人いたが、その子達も先生と手をつないだり、先生の伴走の下、ゆっくり楽しそうに走っていた。
俺の頃とずいぶん変わったんだな、と思う。
俺は1日ずっと見学か、さもなければ野次の中、一番最後をのろのろと走った覚えしかないもんな。
ピノコは途中で抜かされて3位だったけれど、走った後楽しそうに友達と話していた。
その姿を1枚だけパチリ。
一服付けて戻ると、玉入れでピノコが入場してくるところだった。
もう次の競技か。
よくよく考えれば当たり前なのだが、幼稚園の競技はとても忙しい。
何しろ年少・年中・年長の3種類のチームが入れ替わり立ち代り競技をするのだから。
その途中にじじばば競技とか父母競技なんかを入れて子ども達を休ませないと、次の競技に並んだり、競技が終わってトイレに行くだけで、座ることすら出来なくなる。
俺なんかピノコ1人だからいいけれど、年少と年長に子どもがいたりしたら大変だろうな。
特にすべてビデオに撮ろうと息巻いていたら、下手するとトイレに行く暇もないだろう。
その後年少の親子競技や年長の組体操を見、次はピノコのお遊戯だ。
頭に被り物をした子ども達が、並んで園庭に入ってくる。
先生がさっき地面に紐をはっていたな、と思ったが、それは子どもの位置決めのロープだったらしく、ロープのこぶに1人ずつちょこんと乗って。
正直、蕩けた。
あの、芋虫のように身動きの取れなかったピノコが。
団体生活が一切できなかったピノコが。
みんなと同じくリズムに合わせて手を振り、回る。
それにつれて、被り物についた光沢テープがなびいてきらきら光る。
時々左右を間違えたりもするけれど、そんなの気にせず楽しそうに。
歌は多分テレビの主題歌だ。
家でピノコが見るチャンネルから流れるのを聞いたことがある。
でも、これがこんなにいい歌だなんて、今まで知らなかった。
今度家で流れたら、ピノコをおだてて踊ってもらおう。
不覚にも目の奥が痛くなり、あわてて気合を入れ直す。
写真を撮り忘れたのに気がついて、あわてて退場門に移動して何とか1枚被り物つきの写真を撮ることに成功した。