海外ドラマ隊

走る

 

 

そこはちょっとゴミゴミしていたが、そんなに治安が悪そうにも見えなかった。

けれど、日本の治安の良さこそが異常なのだ。

鞄は絶対手から離すな。

どうしても両手が必要なときには両足の間に挟むか、足で踏め。

生き馬の目を抜くニューヨークのダウンタウンでそれは必須のことだったのに。

 

画期的な新薬をやっと手に入れることができた喜びに、俺の注意は散漫だった。

ホテルに荷物を置く前に店に入ること自体、あるまじきことなのに、そこで知り合いに会ったからとてペチャクチャおしゃべり。

どうしようもない。

 

立ち上がって鞄がないのに気づいた時、動転のあまり目の前が真っ赤になった。

這いつくばって見つかるならそこら中這いつくばる。

金が欲しいなら有り金全部叩いたっていい。

あれだけはだめなんだ。

困るんだ。

 

外に飛び出し、左右を見回す。

鞄はないか。

俺の鞄。

誰か俺の鞄を持っていないか。

鞄を持った奴はいなかったか。

 

今そこを曲がった男の鞄が似ている気がして

「おい」

と呼ばわりながら追いかける。

だが必死に走って追いついた鞄は色が同じだけでぜんぜん形が違う。

「なんだお前」

と突き飛ばされそうになるのを間一髪でかわし、また走る。

鞄はどこだ。

俺の鞄。

 

息が切れて走り続けられなくなり、壁に手をつく。

深呼吸するために目をつぶるとコロリと死んだ猿の顔が頭の中に大写しになり、それが男の、女の、子供の顔に変わっていく。

見知らぬどこかの人間が俺の不注意で死んでしまうかもしれないのだ。

どうしよう。

もし悪意ある誰かの手に渡ったら。

全く痕跡を残さないあの薬が悪用されたら。

 

ああ、たった今薬の瓶が割れればいいのに。

盗んだ誰かがなんだこれ、と捨ててくれれば。

そんなことを必死に願いながら、またも通りを走り出す。

誰か、俺の鞄を持っていないか。

俺の鞄を知らないか。

絶望感に襲われながら、でも足を止めることはできない。

どこを探せば鞄はあるのか。

この広いニューヨーク、地の利もないこの場所でどうすれば。

 

けれど

「おじさん!」

と手を捕まれて引きずられるように狭い部屋に連れて行かれた時、今までの絶望なんて仮定でしかなかったことに気づかされた。

すでに薬は使われていたのだ。

 

ああ。

もうだめだ。

あんなに取り扱いに気をつけろと言われていたのに、俺はなんて不注意なことを!

 

絶望に駆られ、すべてをあきらめようとした瞬間、俺を叱咤する声が響いた。

あきらめない男、往生際の悪い男。

その言葉にすがるようにまた駆け出す。

まだ俺にもできることがあるのか。

 

電話を。

車を。

病院を。

もうだめだ、という思いに押しつぶされそうになる度、男の声が俺を前に押す。

あきらめるな。

まだだ。

まだ。

 

その声の強さに背を押されると、閉ざされた限界の壁にひびが入る。

割れたすぐ先にはまた壁があるが、男の声が崩していく。

あきらめるな。

まだだ。

ほら。

 

 

先陣を切る男の先に、光があった。