傲慢
この男と鉢合わせてしまうのは、もう運命なのだろうか。
ここは日本ではない。
北半球ですらない。
オーストラリアのアリススプリングスだ。
南半球の大きな国の、小さな町。
その病院の1室には重態の患者。
彼を挟んで相対する俺と奴。
さすがに患者の前で長々口論することははばかれて外に出た。
患者は家族と話し合いたいということだったし、俺たちも何度もの似たような経験から、クールダウンが必要だと学んでいた。
何しろ俺など空港から直行したのだ。
長旅で疲れていたし、腹も減っていた。
腹を満たし、お互いに冷静になってから改めてカルテを検討しようじゃないかという奴の言葉に異論はなかった。
病院の中にレストランはあったが、そこで食事するには俺達は異質すぎる。
近くに大した店はなかったので、数ブロックタクシーに乗り、町の中心に出た。
目に付いたレストランで多少ギクシャクしながらも、表面上は角付き合わせることもなく食事をする。
カルテは持ち出せないのだし、嵐の前の静けさ、という奴だ。
荷物もあるし、目の前のホテルにチェックインしてから病院にとんぼ返りしようか、と外に出た時だった。
途端、キキーッ、どん、どしゃっという音がし、一瞬の空白の後キャーッという悲鳴が上がった。
音の方に走る。
交通事故だ。
あわてて降りてきた運転手が
「ひい」
と悲鳴を上げるのが聞こえた。
「大丈夫ですか」
と揺すろうとするのを制して患者を診る。
後ろでキリコが
「救急車を呼べ」
と指示する声がする。
メスで血まみれのシャツを裂くと、肋骨が折れて飛び出ていた。
これはまずい。
「救急車が出払っているって!?」
という悲鳴が背後でした。
「下手に動かせないな」
と言うキリコに
「ここでオペをするから血液型を調べて輸血の用意だ」
と言いつつ検査キットを放り、オペ室の用意をする。
例の、あのビニールテントだ。
キリコはドラえもんのポケットのような俺のかばんにちょっと驚いたようだったが、即座に反応し、すばやく検査すると周りの人間に献血を求め始めた。
案の定、肋骨が心臓を掠めていて、ほんのちょっとでも動かしていたら心臓を突き破っているところだった。
キリコを助手にしてすばやく傷ついた動脈を縫い、他に傷ついた内臓がないか確かめる。
良かった、致命的な損傷はしていない。
断裂した膜や筋肉を可能な限り整復し、患部を閉じる。
キリコとともに大きく息をついたころ、サイレンが迫ってきた。
手早く撤収の用意。
救急隊員への応対をキリコに任せ、使った器具ひとまとめにして新聞でくるみ、オペ室だったビニールで包みこむ。
それを予備の袋に詰めて、目をつけていたホテルに直行だ。
事情徴収に引っ掛かると面倒なのだ。
俺は無免許なんだから。
部屋が空いていたのか、フロントはシングル料金でツインの部屋をあてがってくれた。
オーストラリアは土地が余っているせいか、値段の割りに部屋が広い。
バスタブも広くて、嬉しくなる。
簡単なキッチン設備まであった。
煮沸消毒まで部屋で出来るぞ、ここは。
いつもみたいにチップを弾んで厨房の隅を借りずに済むだけでも気が軽い。
洗い物とゴミを分けながらうんざりする。
この頃はこういうゴミの廃棄に気を使わなくてはならないのだ。
後で病院に持って行ってお願いしちまおうかな。
ビニールテントも使い捨てだ。
こういう慈善事業はどこにも請求できないし、持ち出しばかりで大赤字だ。
そんなことをぶつぶつ呟きながらも結構いい気分なのが、我ながらおかしい。
ドアをノックされたので出ると、キリコだった。
「俺を置いていきやがって。おかげでこっちは大変だったんだぞ。何かあったら連絡しろと、ここの部屋を教えておいたからな。事情徴収があったらちゃんと応じろよ」
と言う男を思わず睨むが、蛙の面に水だ。
ま、容態が急変するとも思えないし、何とかなるだろう。
さあ病院に戻らないと、と思うが疲れた、眠い。
オペ、特に精密さを要求されるのにろくな設備のない今日のようなオペの後、俺はしばしば強烈な眠気に襲われる。
多分、目を限界まで使うからだろう。
目の奥、後頭部の辺りがずきずきする。
瞬きもほとんどしていなかったらしく、今は目の表面が乾いて瞬きするのも痛い。
でも、今日のは短時間勝負だったから30分か1時間眠ってしまえば回復するだろう。
あ、患者の家族に居場所を連絡しなければ。
「さっきの器具をとりあえず水に浸けといてやる。起きたら洗えよ」
と言うキリコに
「30分だけ休ませろ。依頼人に居場所を連絡してくれ。抜け駆けするなよ」
と言いつつ意識を手放す。
「おい」
と強く肩を揺すられ、目を覚ました。
時計を見ると、さっきから5分と経っていない。
何とか意識は目覚めたが、体は深く眠っていたらしく、重い。
だが
「あの患者、亡くなったそうだ」
という言葉に飛び起きる。
なんだって。
オペは完璧だったはず。
言いかけた俺を制し、口をつぐむのを確認してキリコは言った。
「亡くなったのは交通事故の奴じゃない。依頼人の方だ」
と。
タクシーに飛び乗り、病院に急いだが、俺達が着いた時にはすべてが終わっていた。
患者は俺達が出かけてしばらく家族の説得を受けていたが、突然発作を起こしたのだという。
すぐに担当医を呼んだそうだが、彼の手には負えなかった。
家族は俺たちに連絡を取ろうとしたが、キリコの携帯はつながらなかった。
そう言えば、オペの最中にどこかで何度か携帯の音がしたような気がする。
だがそんなもの、意識に上りはしなかった。
キリコは俺の部屋で家族に連絡を取ろうとして、初めて何件もの着信があったのに気づいたのだ。
青天の霹靂だった。
患者のカルテは簡単に見ただけだったが、今日明日に急変するとは思えなかった。
結局俺たちの思惑など関係なく、人は死ぬ時に死ぬということなのか。
生を、死を選ぶなどという考えこそが傲慢なのか。
俺はさっき一人の命を救ったと思ったがなんのことはない、その間に一人の命を取りこぼしていたのだ。
病院にいれば依頼人の命を助けられたが、俺たちの知らないところで誰かが死んでいた。
そんなの、仕方ない。
俺の体は1つ、手は2本しかないのだから。
なんとかそう思いたかった。
けれどそんなの何にもならないとわかっていた。
どんなに一つの処置がよかったとしても、それが何だというのだ。
俺の、俺達の手はなんと小さいのだろう。
嘆き悲しむ家族ともう動かない患者の前で、俺たちは呆然とするしかなかった。