チェンジFX

(下)

 

 

さっき通り過ぎた3階は『宇宙トレーニング室』と銘打たれている。

まあ、言ってみれば1フロアぶち抜きの屋内遊戯場だ。

空中に張り巡らされたアスレチックの数々から滑り台が伸び、下にはエアシューターや手回しジャイロ、エアーパークや、月面ジャンプという月の重力でのジャンプを体験する機械や、空間移動ユニットがある。

親も先生も子供に手をひかれて一緒に回るのだ。

 

ピノコに手をひかれてトレーニング室内部の階段を上ると、キャットウォークのような空間に出る。

下がゆらゆらした丸太だったり網になったり。

はたまたつるつる滑る小さな滑り台や四つん這いにならないと通り抜けられない小さな隙間、それに唐突に始まる梯子段なんかの障害を乗り越え、先に進む。

ああ、俺も大人になっちまったもんだ。

確かに小さいころにこんなのがあったら大喜びで駆け回ったに違いないが、こんなでかい体にこの空間は狭すぎ、楽しむどころの話ではない。

滑り台で下に降りられた時にはほっとした。

降りたところにあったのは、ビー玉を滑らせるスロープだらけの小山のようなもの。

下にあるビー玉を好きなところに乗せるところころ転がって内部に入り、思いもかけないところから飛び出してはまた中のスロープに消えていく。

出発地点もゴール地点もたくさんあるので、自分のビー玉がどこからどう出てくるのか分からず、なんだか夢中になってしまう。

 

「先生、これやりたい」

と次にピノコが走って行ったのは、空間移動ユニット。

これは『宇宙空間に出て作業を行うための訓練』と銘打たれた1人乗り(幼児は親と同伴)の機械に乗り、手元のスイッチの操作で場所を移動しては床に書かれた的にレーザーを当てる、というもの。

保護者の付き添いが必要なので、先生が交代しながら何度も付き添っている。

俺とピノコの番になると

「あ、ピノコちゃんパパ、すみませんがしばらく代わっていただいていいですか。ちょっと酔ってしまって」

と先生に頼まれた。

顔をよく見ると青白い。

「いいですよ」

と言ったのが命取りだった。

ピノコとの悪戦苦闘が終わっても、俺の出口はまだ遠い。

俺たちの後ろにも沢山の園児がわくわくしながら待っているのだ。

ピノコはほんのちょっとの間俺を待っていたが、通りかかった男の子に

「ピノコちゃん、これ、面白いぜ」

と誘われ、俺を見た。

「遊んでおいで」

と言うとちょっと迷ったふうだったが

「先生、頑張ってね」

と言いざまかけだす。

こんなにいろんな遊具があるのだ、いろいろ試したいに違いない。

だが誘ったあいつ、確かさっきピノコに対抗してテーブルに乗ろうとしていた奴じゃないのか。

案外ピノコのことを気に入っているんだな。

 

ふたりでエアーパークの上をトランポリンのように跳ねまわっているのを横目で見つつ、次の子、次の子、と空間移動ユニットを10回も繰り返し乗っていたら俺も酔った。

いつの間にか端でのんびり子供たちの相手をしているキリコを見つけ、フラフラになりながら交代を申しつけるとやっと降りられた。

 

ほっとして手すりにもたれ、周りを見渡す。

楽しそうな園児達、それに一般の客。

一般の客はたいがい母親やジジババとよちよち歩きの幼児。

幼稚園に入れば、平日のこんな時間に遊びに来られないせいだろう。

親に抱っこされて、展示を覗き込む子。

短い指でビー玉をつまみ、穴に入れてそれがすべる様を全身目にして驚く子。

そういえばピノコも、この世に生まれたての頃はアリや雲の動きを目を丸くしてみていたものだ。

リハビリに疲れてかんしゃくを起こし、寝転んだまま起きないなと思っていると、アリを見つけて指でつぶそうとしていたり、土くれを細かく粉にするのに夢中になっていたりしていて、がっかりしたりこれも手指のリハビリだから、とかんしゃくを抑えたりしたっけな。

今のピノコは歩いて走って、こんなアスレチックも飛ぶようにこなせるようになった。

まだ注意力散漫で、先生の話より自分の興味のままに好きなことをしてしまったり、長いこと考え続けるのが苦手だったりするけれど、以前より集中できる時間が少しは増えたし、何より人と付き合えるようになった。

あんなにたくさんの友達に囲まれて、笑えるようになったのだから。

 

「すみません、お二人がずっと付き合っていてくれたんですか。替わりますから少しお休みになってください。引率、ピノコちゃんがあまり嬉しそうだったのでお願いしましたが、あなたには申し訳なかったですね。わざわざお友達まで呼んでくださったなんて、やはり男の方一人では居場所がありませんでしたか」

いつもにこやかな園長先生に声を掛けられ、申し訳なさに恐縮する。

いや、こいつはそんな付き合いじゃないのですがと言い訳したくなったが、だからどんな付き合いかと問われてもきちんと答えられる自信がなかったので恐縮したままにしておく。

そんな風に同情されていたとは。

けど、俺そんなに引っ込み思案だと思われているんだろうか。

世間には厚顔無恥で鳴らしているんですけど。

 

「ふう、遊んだ遊んだ。あの乗り物、急発進と急停止の連続で、結構三半規管に来るな」

と言いながらこちらに来る男に軽く合図をしつつ

「何で付き合ったんだ。お前さん、ただの雨宿りだったんだろう」

と聞くと

「ま、いいじゃないか。どうせお前さんも手に余っていたんだろう?」

と言う。

それだけじゃないような気がして横目で見ていると、嫌そうに手をふって俺の視線を外しながら

「こういう商売だからこそ、子供の汗でむっとする髪の毛の匂いとか、湿った運動靴の匂いが恋しくなることもあるんだよ。引率や子育てに疲れたお前さんにはわからないことさ。俺なんて、普段はストーカーか人攫いにでも間違えられそうでこんなふうに元気な子供と手をつなぐ機会なんてないんだからな」

と言った。

 

この男もいい年だ。

戦争などに行かなければ、そして安楽死医になどならなければ、今頃結婚して子供の2人や3人いたかもしれない。

子供は嫌いじゃないみたいだし。

仮定の話をしても仕方ないけれど。

 

通りかかった子供が

「おじちゃん、アスレチック行こう。僕、すっごく早く通れるようになったんだよ」

とキリコの袖を引っ張る。

「あと少しで時間だよ」

と言いながら引かれるままに立ち去る男。

「先生、見て、見て!」

と上からの声に振り仰ぐと、ピノコが長い滑り台の上から手をふってすごい勢いで下り始めた。

勢い余って飛び出し、思い切り尻餅をつくが、俺が近づく前に

「大丈夫?」

「痛い?」

と子供達がてんでに寄ってきて、彼女の手を引っ張り助け起こす。

「うーん、だいじょぶ」

と痛そうな顔をしながらも立ち上がるピノコは、もう赤ん坊じゃない、自分を立派な一人前だと思う少女だ。

周りの子と同じに。

ああ、この子達は本当に大きくなった。

 

だが、ピノコは俺の顔を見た途端

「先生、足から血が出たア。絆創膏貼ってエ。おんぶしてエ」

と急に泣きべそかきやがった。

前言撤回、やっぱりまだまだお子様だ。

 

集合がかかり、子供達の数を数えて外に出るときにはキリコの姿はどこにもなかった。

バスに乗る時、また俺の手にお茶のペットボトルを握らせた園長先生は

「あれ、お連れの方は乗らないんですか? 遠慮なさらなくても助手席なら空いていますよ」

と言ってくれたが、本人の行き先なんて俺だって知らない。

それどころか、仕事じゃないならなんでこんな所にいたかも俺は知らない。

雨宿りなんて、駅からここに来るまでに濡れちまうじゃないか。

カバンだって駅でコインロッカーにでも置いてきたのかもしれない。

 

けど、奴の事を考え続けることはできなかった。

バスの中は朝ほどではないとはいえ、にぎやかで子供の匂いに満ちていた。

雨の日でもお日様を絞ったような、ちょっと酸っぱくて甘い匂い。

今日の感想を言い合う楽しげな声。

 

唐突に気づいた。

もうこんな遠足の引率なんて、することはないんだ。

こんなふうにむせ返るような子供の匂いを胸いっぱい吸うことだって、これから何回あるんだろう。

 

「ああ、疲れた。けどたまには引率もいいわねえ」

まだまだ元気な丸さんに生返事を返しながら、確かに遠足の引率は「当たり」なんだな、と思った。