どことも知れぬ場所にて
軍を去り、故郷を去り、日本での安楽死稼業も板についてきた頃、俺は妙な男たちの訪問を受けた。
膨大な依頼金の代わり、何も聞かない、見ないの約束。
余りにも胡散臭い男たちの訪問が、だが今の俺には一つの救いに見えた。
これだけあれば、父とユリの療養生活に足りるだろう。
あとは何の未練もない。
消される可能性も高いが、それならそれでかまわない。
銀行に寄って入金手続きを済ませる時間だけ待たせ、後は目隠しに甘んじる。
どこに行ってもよかった。
どこでいなくなってもよかった。
欲しいものも、大事なものも、何も無かった。
俺は安楽死をし続けるだけだった。
着いたところは、どうやら軍の極秘施設らしかった。
車と船を使い、しかも変にぐるぐる同じ場所を廻った感じもあったから、よほど現在地を知られたくないのだろう。
患者は重度の放射能汚染だった。
診察をしたがすでに手遅れ、今生きているのも不思議な状態だ。
これはこの間新聞をにぎわせていた、あの事故か。
俺は口封じに呼ばれたんだな。
3人とも、気の毒だが運がなかった。
こんな事故に巻き込まれて、生きているのもつらいだけだろう。
最後に家族にすら会えないのは気の毒だが、何、大概の人間は未練を持ちつつ死ぬもんだ。
せめて最後は痛みなく、穏やかに逝かせてやろう。
その場ですぐに処置の用意を始めようとしたが、止められた。
もう一人、医者を呼んでいるというのだ。
こんな状態の患者、どんな名医でも無理に決まっている。
そう言ったが、最高の腕を持つ名医だという。
こんなところに、どんな名医が来るっていうんだ。
どうせそいつも首を振るだけだ。
依頼人に待てと言われたから待つが、俺にとってそれは時間の無駄だった。
患者のうめき声からは絶望しきった気持ちのみが立ち上っていた。
今ならわかる。
俺はあの頃、死神だった。
死にたい、という患者の絶望があり、手の施しようがなければ、無言でそれをかなえてやることのみが正しいと思っていた。
それどころか、治ってもまともに動くことも出来ないなら生きていても仕方ないとさえ思っていた。
単に息をしているだけの人間なんて屍と同じだ。
その分の医療器具をもっと助かるべき人間に振り分けろ。
俺の体は戦場から戻っていても、その心はいまだ戦場に留まっていた。
ブラック・ジャック。
その名前だけは聞いたことがあった。
闇の黒医者。
非合法の依頼にも応える、メスの鬼。
その男がこんなに若いとは思わなかった。
俺より若いということは、どう見積もっても20代。
そんな年齢でその評判を取る事がどれだけ異常か。
噂からせめて40代だと思っていたのに、まさか同年代とは。
患者の無残な姿を診ればすぐ安楽死に同意するかと思ったが、男はそうしなかった。
手の施しようのないはずの人間の身体を開いては切り取り、剥ぎ変え、治療し続けているらしい。
そんなことして何になるのか。
そう思ったが、依頼人に待てと言われれば待つのにやぶさかでない。
この男もしばらくしたら自分のおろかさに気づくだろう。
暇な時間を、俺はこの場所の探索に費やしていた。
余計なことを知るのは身の破滅につながるかもしれないが、逆に安全を保障することも多い。
政府という奴は、人間を虫けらのように殺すから。
特に俺のような闇家業の人間なんて、殺すのに何のためらいも持たないだろう。
戦争を体験した俺にとって、政府の命令ほど胡散臭いものはない。
何時死んでいいと言ったって、馬鹿な死に方はごめんだ。
車はキーともども厳重に保管されていて、とてもではないが手に入れられそうにない。
敷地の周辺は高い塀で囲まれ、有刺鉄線には高圧電流が流れているようだ。
門の上も同様。
詰所には必ず複数の人間が待機。
まさに要塞だ。
ひるがえって海はというと、こちらのほうが手薄だった。
ボートが2艘。
モーターボートは音がうるさいが、オールである程度沖合いに出てから使えば大丈夫だろう。
新式の方はよく使われているらしく、がけ下にもやってある。
雲行きが危うくなったら、こっちのガソリンタンクには砂糖を仕込んでおくのだ。
追跡しようとしても、すぐにエンジンが焼きついてしまうはず。
旧式の方はまるで打ち捨てられたかのように、敷地の端に置いてあった。
そのボートを点検して動きそうなのがわかると、俺は人目のない時にそっとオールやガソリン、非常食や水などを集め、ボートの近くに転がっていた空き箱などに詰め込んでいった。
こんな場所ならまず大丈夫だとは思うが、誰かが来ても困る。
こんなことをする暇があるのは、俺しかいない。
1週間がたった。
いい加減あの男もあきらめたろうと思ったが、驚いたことに少しずつ患者の様態がよくなっているという。
馬鹿な。
最初に本人も言っていたが、放射能汚染など外科医の領分ではない。
悪いところを切り貼りして何になる。
どれだけの事をすればそんなことができるのか。
助手たちの噂話では、奴は来てからこっちオペの連続で、終わると着の身着のまま泥のように仮眠を取り、その間にされた検査の結果を見ると又すぐ次のオペを始めるという。
部屋に帰るのはシャワーと着替えのみ、食堂にすら行く暇を惜しんでカップヌードルなどを持ってこさせる。
「なんて驚異的な体力と精神力だ」
と絶賛しているが、確かにタフだ。
無人の時を見計らって患者の様子を見にいってみたが、確かに1週間前とは違う。
患者に生きようとする力が感じられるのだ。
これは俺のほうが用無しかな。
ブラック・ジャックという男、本当にたいした奴なのかもしれない。
状況が変わったのは、その日の夕方だった。
普段のように散歩と称してうろつき回ろうとしていたら、政府の人間が来た。
いつもの虫のような目をして
「先生、そろそろ出番になりますので、こちらの指示がありましたらよろしくお願いいたします」
と言う。
「ほう、ブラック・ジャックが音を上げたかね」
とたずねながら、それはないと思った。
あのタフな男が、1日やそこらで変わる筈ない。
案の定「上からの指示」だ。
政府なんてそんなもの。
大事なのは一人ひとりの命じゃない。
国としての体面だ。
激高する男の声が聞こえた。
食い下がる男の声は、静かであるはずのこの政府の牢獄の中によく響いた。
その声を背に、俺は旧式のボートに向かった。
なぜかはわからない。
俺はあの患者たちがもし持ちこたえたとしても、それはほんの少し命が永らえただけに過ぎないとわかっている。
最後の日々は、たぶんひどく苦しむことだろう。
今一思いに終わらせたほうがずっといいに決まっている。
そう思いながら、なぜか俺の手は今まで注意深く集めた荷物をボートに載せていた。
さっき見た患者たちなら、もしかして可能性があれば生きようとするかもしれない。
戦場でもほんの少数だが、信じられない幸運を身に受けた兵士がいた。
その幸運はそう何度も続かず最後には死のあぎとに捕まるのだが、あの患者たちからはまだ幸運が逃げていないような気がした。
そう、もしこのボートに来られるだけの、そしてしばらくオールを漕げるだけの体力が、気力が戻っているなら、もしかしたら。
だが俺は安楽死を依頼された身。
俺から話すわけにはいかないし、患者があれを見つけられる可能性は限りなくゼロに近いわけだ。
馬鹿な真似をした。
何故こんな無駄な真似を、と思いながら自室に戻ろうとあるドアの前を通ったとき、ドアが細く開き
「ドクター・キリコ」
と声がした。
振り向くと同時に部屋に引き込まれる。
そこはもう一人の黒医者、ブラック・ジャックの部屋だった。
「聞いたか」
と言う声は、怒りでかすれていた。
「何のことだね」
とわからない振りをすると
「わかっているんだろう、患者のことだ!」
と言いつつ俺の胸元を握る。
存外喧嘩っ早い男だ。
「俺に安楽死の要請が来たかという話なら、微妙な線だな。そろそろ出番だと言われただけだ。
大体俺を締め上げるのはお門違いだ。それとも俺が仕事をさせろと運動したとでも?」
と言うと俺をつかんでいた手が離れた。
「こんな時間までどこに行っていた? あんたはよく散歩ばかりしていると助手の一人が言っていた。
この監獄を調べまわっていたんじゃないか?
あんた、確か最初に助けられる患者は全力で助けるとも言ったよな」
「依頼者の決定だろ」
「患者は快方に向かっている。確かに完治は出来ないかもしれないが、それでも驚くほど良くなっているんだ。それはあんただってわかっているだろう」
「あいにく俺は安楽死に呼ばれているんでね」
「患者が言っていた。今日診にきたお前は怖くなかったと。
あんた、俺がいない時、時々診ていたんだってな。
今までは見られるたびに怖気が立ったけれど、今日は死神の気配じゃなかった。
俺たち、それだけ良くなったことですよね、と言っていたんだ!」
力負けしたのか。
それともこの男の話す患者の姿に過去を思い出したのか。
もし救援があるなら助かった命がいくらもあった。
万分の1の可能性にすがり付こうとした命が、その甲斐なく死んでいった。
今、この場にあるのはそれよりほんの少しだけ上の可能性。
もしあのボートに来られるだけの、そしてしばらくオールを漕げるだけの体力が、気力が本当に患者に戻っているなら。
「車はだめだ。西階段はわかるな。あの階段は下の海岸線まで降りられるようになっている。非常口を出ると右側に大きな岩があるが、その裏に余り使われていないモーターボートがもやってある。
しばらくはオールを使わなければ音でばれる。かなり沖まで行かなければエンジンはかけられない。
モーターが本当に動くかもわからない。崖下にもっと新型のボートがあるから、それで追跡されればいちころだ。
そして逃げたとわかった場合、逃がした責任を問われるのはまずお前さんだ」
「そして次はあんただな。よく散歩をしていたのはあんただし、そうでなくても下っ端役人は俺たちの命なんざ何とも思ってない。恩に着る」
そう言ってすぐさま患者へ走り出しそうな男の腕を取った。
「もし逃がすなら、夜はやめておけ。夜の見張りはかなり厳重だ。外へのドアを開けただけで監視カメラのブザーが鳴る。逃がすなら朝食を下げる朝8時から、見張りが完全に交代するまでの9時だ。一番あわただしくて、気が緩む」
男の代わりに部屋を出て自室に戻りながら、馬鹿なことをしていると思った。
なんて無駄なことを。
大体患者が逃げる気になるかもわからない。
いや、あの男なら説得してしまうだろうか。
酔狂だが、明日はなるべく時間を引き延ばしてみてもいい。
ただし、俺は死神。
俺が治療室に行った時に目の前に瀕死の人間が横たわっていたら、俺のやることはただ一つ。
それだけを決め、俺はベッドに横になった。
『死神の化身』、実は未見ですなのですが、よそのサイト様でその改編前のせりふを拝見したことがあります。
でも、パソコンが壊れた時にアドレスを失ったので、せりふが大幅に違っているかも・・・。
あの回のキリコは戦争の影を色濃くまとってい、また患者の命についても後の彼の考えとは明らかに違い、生きていても役に立たないものは殺す、と言い切っています。
そんな彼はもしかして復員してからそんなに経っていないのではないか、戦争後の傷がきちんと癒えない状態で安楽死を繰り返しているのではないか、そしてBJより若いのではないか、と妄想しました。