無様で情けない恋
雇っている探偵から連絡があった。
あの男が動き出したと。
荷物の多さから海外ではとの報告を受け、あわてて車に乗る。
後ろからあの子の声が聞こえるが、いつものことだ。
きっとすぐあきらめてくれるだろう。
今の時間、空港までの道は混んでないはず。
アクセルを踏み込みながら、俺は何をしているのだろうかと思う。
1文にもならないことにうつつを抜かし、大金をかける。
ばからしい。
こんな風に一人のことを付け回したことが以前にもある。
普段は思い出しもしない、過去のことだ。
今なら確実にストーカーとしてさげすまれただろう。
いや、探偵まで使う今のほうがずっとたちが悪い。
付け回して、吠え掛かって、ねじ伏せようとする。
あいつの改心を願うなんて、本当か。
単にあいつの視線を捕らえたいだけじゃないのか。
これは絶対に恋ではない。
第一、二人とも男なのだし。
だが、この無様さはなんなのだ。
まるであの時のようではないか。
あんな無様な真似、もう絶対にしないと決めたのに。
ずっと昔、一度だけ恋というものをしたことがある。
大学のときの後輩だった、如月めぐみという人。
格別美人というわけではなかったが、努力を惜しまない、目の美しい人だった。
俺は誰にも気づかれないよう、彼女の姿を追い続けた。
彼女に怖がられていることは知っていた。
だから好意があることを知られたくなかった。
好きだとばれなければ先輩後輩として接することができる。
けれどばれたら、少しはあるだろう先輩としての尊敬すら受けられなくなる。
その後の噂話を想像するだけで頭をかきむしりたくなった。
なにあの男、化け物の癖して如月さんに気があったんだってさ。
えーっ、めぐみ、かっわいそう。
ちょっと位小器用だからって、あいつ自分のこと何様だと思ってんのよ。
あんな根暗、一緒の空気吸っているだけで気持ち悪いのに。
想像は幻聴のように、彼女を思うたびに襲ってきた。
俺は慎重に彼女と距離を取りながら、けれどいつも彼女の動きをたどっていた。
彼女は研究熱心でよく残業をしたが、そんな時には図書館や他の研究室にこもり、彼女のいる研究室の明かりが消えるのをずっと待っていた。
消える前に雨が降ると大急ぎで下宿に戻り、男物とも女物とも取れるかさを取り出して、彼女が見つけそうなところに置いておく。
研究室の明かりが消えるとそっと門の近くに回り、影のベンチで彼女の靴音を聞いた。
それはごく普通の歩き方でしかないのに、彼女の靴音だけは聞き分けられた。
その足音が十分に遠ざかってから、闇にまぎれてそっと彼女のあとをつける。
特別疚しい思いがあったわけではなく、気になる人が無事に家に着くのを見て安心したかったのだろう。
俺にとって彼女はいつしか聖域になっていた。
普段先輩として逸脱のない行動を心がけるあまり、ほかの人間が彼女を損なうなんて許せなかった。
とんだドンキ・ホーテだが、俺は彼女の騎士にでもなったつもりでストーカー行為を続けていた。
彼女が不良に絡まれたのを見た時、だから俺はばれるのを忘れて追い払いに行ってしまった。
その後の彼女の目を見て、俺は恐ろしいことに気づいた。
いつの間にか彼女は俺に好意を持っていた。
それこそが一番あってはならないことだった。
俺の好意は決して彼女に知られてはいけなかった。
俺は彼女に愛される資格のない人間だった。
俺はこうして人間として生きているが、厳密に言うと男とはいえない。
俺には正常な、受精の出来る精子がないのだ。
爆発のとき、大やけどを負った後遺症なのだろうと思うが、俺はなかなか精通がなかった。
初めての精通があったのは高校3年になってからだが、それでもあった時は嬉しかった。
保健の時間に体の仕組みを習い、体育の着替えの時など男同士でする猥談を、興味ない顔をしつつこっそり聞きながら、事故のせいで不能になったのではないかと1人恐怖に震えていたのだ。
もちろん、復讐のためには女にかまける暇はない。
けれども復讐を望むのにかき消されがちではあったが、俺の中には家族が欲しいという強い願望もずっとあった。
いつか母のような人と家族になって、子供を持つ。
子供には精一杯の愛情を与えたい。
俺は絶対に家族を大事にする。
彼女の両親を本当の親のように愛し、敬う。
恥ずかしながら復讐に猛る反面、そういう夢を見ることもあった。
だからある時顕微鏡で自分の精子を見たときの衝撃は烈しかった。
奇形ばかりだったのだ。
頭部が大きすぎるもの、小さすぎるものなどはまだいい。
不定形のものや双頭のもの、先体が欠けているもの、尾部が2本あるものや曲がっているもの、頭部のみでまったく運動できないもの。
どれ一つとして教科書に載っているような正常な精子はなかった。
たった一人で残業しては精子を採取し、気が狂ったように何度も確かめたが、一度として正常な精子は認められなかった。
またそんな奇形の精子の数でさえ、異常なほど数が少なかった。
俺には男としての機能はないのだ。
これから先、復讐だけを考えるのに、これほど都合のいいことがあろうか。
そう思い込もうとしても、仕切れるものではなかった。
だからこそ、彼女を高嶺の花としてそっと見つめる以上のことはしたくなかったのだ。
彼女の好意を感じるのは、今までのように自分が怪物だからという気持ちの奥に隠してきた、一番の気後れを己にさらすことになった。
本当は俺はこんな顔や性格以外に、最悪の欠陥を持っているんだ。
叫びたくなるのを我慢するために、余計彼女につっけんどんに接した。
どうかそんな俺の秘密を暴かないでくれ。
大好きな人だからこそ、俺は少しでもよく見られたかったのだ。
彼女が子宮ガンになったと知った時、本当に喜びはしなかっただろうか。
心の奥底で、それこそを願ってはいなかっただろうか。
わからない。
そのとき彼女の命を救おうと必死になっていたことだけは事実だ。
けれど、本当にあのときの俺の技術では子宮と卵巣を全摘するしかなかったのだろうか。
いや、全摘しなければ転移していた。
そこまでは認めるとして、手術前に彼女を貶めるような真似をしたのはなぜか。
女でなくなるなんて言い方をしたのは、男でない俺でも彼女なら似合いになると思ってのことではなかったか。
あのころのことを思い出すと、その辺を転げまわりたくなる。
色々な恥ずべき行為が連鎖的に思い出されて、今でも後悔に締め付けられそうだ。
結局めぐみは、いや、如月先生は退院と同時に船医の道を選んだ。
先生は俺なんかよりずっと雄雄しく運命に立ち向かっている。
俺はほんのちっぽけな欠陥を後生大事に隠し通し、そのために大きなものを失った。
無精子症なんてそれなりに多いものなのに、その時の俺にとってはなんと重大な秘密だったことか。
今から思うと馬鹿らしい。
それからずっと俺は誰にもほどほどの関心以上のものを持ったことがない。
女性の患者は生きるために擬似恋愛をしたがる向きがあるが、そんなのはこっちにはいい迷惑なだけだった。
ほのかに好意を抱いた女医もいたが、相手からあからさまな好意を向けられた途端、気持ちが萎えた。
多分俺は恋愛というものに縁のないまま終わるのだろう。
それでもいい。
俺は恋愛を犠牲にしても見合うだけの人生を歩んでいる。
空港に着いた俺は、公衆電話を見つけるとすぐに探偵に電話した。
俺も携帯を持ったほうが便利なのだろうが、あいつを張る探偵と連絡を取るためだけに携帯を持つのも業腹で、いまだにこういう時だけは不便をかこつ。
探偵は奴の後ろにうまくつき、どこへの航空券を買ったかまで聞き取っていた。
ドイツだ。
大急ぎでチケットを買い、後を追おうとする俺の後ろで探偵の呟きが聞こえた。
「先生の恋煩いは高くつくね」
言ってろ。
これは断じて恋じゃない。
俺があんな無様な真似を金輪際するはずが。
りる様のリクエストは『無様で情けない恋』でした。
それ以外はすべてお任せ、誰の話でもいいとのことでしたので、BJ先生の多分初恋だったろう彼女を絡めた話にしよう、と決めたのですが、なぜかメインにするはずだった現在のターゲットがおろそかなことに・・・。
あの話でなぜBJが手術前にあんなことを言ったのかがずっと心に引っかかっていたのです。
りる様、素敵なリクエストをありがとうございました。