ある仕事
序 ブラック・ジャック
俺は拘束されていた。
組長の息子のオペに成功したところまでは良かったのだが、そのまま帰らせてもらえなかったのだ。
どうやらやくざのお家争いに巻き込まれたらしい。
このオペ、俺に失敗してほしかった人間がいたようだ。
他の医師がみんなさじを投げた症状だったのでまさか治せる奴がいると思わず、俺のオペが成功したところで怒りの矛先が俺に向かった、というところ。
まさかオペ直後に攻撃を受けると思っていなかったので、油断していた。
着替え終わったところでノックの音がし、それに応えてドアを開けたところで腹に1発。
前かがみになったところに猿轡をはめられ、後ろ手に縛られて窓から放り出され。
受身がとれずにしこたま身体を打ったところに男が降りてきて、敷地内の小屋に運び込まれた。
窓一つない部屋。
多分リンチやその手の事に何度も使われているのだろう。
妙に饐えた臭いのする部屋だった。
そこに拘束されて、患者の予後を良くしない様、説得される。
勿論そんな脅しに乗るような俺じゃない。
前払い金はたんまり頂いていることだし、もしそれ以上の金を積むと言われても、こういうものは先着順と決まっているのだ。
どうせなら
「この依頼を受けるな」
と最初に言っておけばよかったんだよ。
ま、天邪鬼の俺はそれでも受けてしまったかもしれないけれど。
大体俺は拘束とか脅迫なんかが大嫌いだ。
そんな事をされたら余計に頑固にならざるをえない。
「どうせちょっとオペがうまいだけのもぐりなんだろ」
というあざけりに
「こっちは世界的に名の知れたもぐりだぜ」
と啖呵を切る。
それで1発多く殴られようが、知ったこっちゃない。
ガツンと打たれて頭が一瞬ぼんやりする。
「顔はやめろよ。服で隠せるところだけだ」
という声。
説得の時間は終わったらしい。
後はお定まりのコースを一直線。
キリコ
俺の医院の機器メンテに来た男が噂を運んできた。
あいつの最新のオペの噂だ。
昨日○○組の前を通りかかった時、奴が入っていくのを見かけたのだという。
あそこには今、瀕死の跡取りがいて、もしオペが成功すると、一度は下火になりかけた組の跡目争いが再燃するらしい。
それは剣呑。
一応注進してやるか、と家に電話するが、電話に出たのはお嬢ちゃん。
聞くと、奴はしばらく帰ってこないとのこと。
あぶないな。
「お嬢ちゃん、1人で大丈夫かい? 誰か知り合いのところに行ったらどうだい」
と言ってみるが
「いつも1人で大丈夫よ。先生が帰ってきた時誰もいなかったら寂しいし、ピノコがいないで誰か患者さんが来たら困るでしょう」
と言われると強くは出られない。
この子は聡いから、あまり言えば奴の無事を心配するに違いない。
「そうかい。なら鍵だけはちゃんとかけるんだよ」
と電話を切った後しばらく考え、知り合いの女の番号に電話する。
患者のフリをして押しかけてもらうためだ。
彼女なら
「先生に診察してもらうまで帰らない」
とか何とかうまくごねて一緒にいてくれるだろう。
ほっとしたところで玄関のチャイムが鳴った。
安楽死の依頼だ。
極秘に、という言葉にうなずきつつ、これは件の組織の依頼ではないかと思う。
もしかして、またバッティングだろうか。
だが奴の依頼は公らしいのに、俺には極秘とは。
何か嫌な予感がする。
患者は若い男だった。
点滴のチューブがぶら下がっているが、襟元から包帯が覗いている。
もしかして、もうオペは終わっているのではないのか。
すぐに施術をと迫る男に、患者と話をして双方納得しない限りは施術しないのが私の主義だ、と突っぱね、患者を覘く。
殺人幇助やお家争いに巻き込まれるなら、ごめんだ。
あの男のオペだとしたら、全回復が見込めないとしても失敗はしていないはず。
なのに何故、俺に依頼がくるというのか。
「本当にあなたの依頼なのですか。あなたにはオペの跡がある。手術が成功しなかったのでしょうか。どうして私を呼んだのでしょう」
静かに、患者が興奮しないように気をつけながら聞く。
そして、あの医者の事も。
医者の事を尋ねた途端、彼は俺を案内してきた男に振り向き
「斉藤」
と問いかける。
斉藤というらしい案内の男は
「私ではありません。そういえばあいつらも何かをたくらんでいるという噂が」
と口元に手をやって考えるようなそぶり。
彼が早く死ぬのを待っていたグループの一部はかなり過激で短絡的な連中らしい。
「こういうことです。私が生きていると、こんな風に争いが絶えない。親父の目を覚ませてやらなくては。でないと親父も、親父の愛したこの組も、すべてがめちゃくちゃになってしまう。先生、お願いです。今なら予後が悪かったのだと親父も納得するはずです」
時間がない。
俺も、そして多分あの男も。
施術について俺の考えを言い、何とか同意を取り付ける。
本当はすぐにここを去ったほうがいいのだ。
だがあの男がここにいる可能性があるとなっては、確かめるくらいしなくては。
迷惑をかけるから死にたいと言うなら、その前にほんのちょっと手を貸してくれ。
施術を終えて案内の男の先導で敷地内を探ろうとしている内、辺りが急に騒がしくなった。
「あそこだ」
「あれはドクターキリコだ。安楽死医ですぜ」
衝撃と共に左のわき腹が熱くなり、撃たれたのだと知る。
カッと末端まで震えが走るのは、痛みを消そうと大量のアドレナリンが放出されたからだろう。
「お前らがわしの息子を殺したのか。斉藤、お前は息子の一番の部下だったはず。なのにお前がこの穢れた安楽死医を手引きしたのか。2人とも、すぐに死ねると思うな。あの先生をどこにやった。他の物は探せ。わしがじきじきにこいつらを尋問してやる」
雷のような大音声。
この男が組長か。
そう言われてよく見れば耳と鼻の形がそっくりだが、それ以外に息子と似通ったところはまったく見受けられない。
ばらばらと後ろの人間が散り、側近が数人になったところでコートの外ポケットに手を入れる。
瞬時に銃口が俺に狙いをつけるのに苦笑しながら
「息子さんの最期の言葉を録音してある。安楽死っていうのはあとで家族が納得できないことがあるし、こんな風にごたごたすることもあるもんでね。聞きたいなら出すが、どうする」
と言うと、1人だけ俺に向かって発砲してきた。
ありがたいことに、狙いはポケット。
今度は右のわき腹が少々えぐれた気がするが、防弾手袋のおかげで商売道具の手は痺れただけで済んだようだ。
「何をする」
と他の男達が振り向くと、男は一散に逃げ出した。
「その男が先生の居場所を知っているはずだ」
と叫び、お付きがほぼいなくなったところで改めて懐のポケットから携帯を引っ張り出す。
証拠を消したつもりだろうが、惜しかったな。
俺、大事なものは外ポケットなんかに入れないんだ。
俺の携帯は特別製で、タイピンにつけた集音マイクと併用すればかなりのささやき声でも長時間録音できる。
これも大事な商売道具だ。
「私が、死にたいのです。本当に、私が頼みました」
「父は、私が跡を継ぎさえすれば、また昔のように、団結できると、頑固に信じている。だが、私は組を継ぐ器ではない。争いと暴力に直面するくらいなら、死んだ方がましだ」
「勘当してくれと何度も願ったのですが、聞き入れられなかった。死病にかかり、手遅れだとわかった時にはこれでやっと解放される、と嬉しかった」
「私が死んだら、跡目争いが激しくなって、ほかの組に付け込まれてしまうかもしれない。でも、私がいても、どうせ同じです。」
「今ならまだ、親父にも力があるから、何とか押さえて、ほかの方向を探れるでしょう。私が継いだら、その瞬間にこの組は分裂する」
「今でも暗殺の噂があるのだから。先生、お願いします」
途切れ途切れのか細い言葉。
これが彼の出せる一番の声だった。
「そんな。わしは」
絶句する組長の手から携帯を取り戻し、痛みをこらえて立ち上がる。
「彼の病室に行きましょう。今は仮死状態でいるだけです。1時間以内に処置を施せば息を吹き返すはずですが、時間が経つとまずい。私の手に負えなくなってしまう」
あの時彼に提案した。
もう1度だけ賭けてみないかと。
俺の安楽死装置は便利なもので、使い方によっては一時的に代謝を極端に落とすことが出来る。
偶然に発見したのだが、蘇生させた時に脳にダメージが残らない、画期的な方法だ。
そう何度も施術の機会はなかったから必ずうまくいくとは限らないが、その時にはもともとの依頼がかなうだけだ。
仮死状態になっても組長の気持ちが同じままだったら、俺は蘇生処置をしない。
きっとそのまま緩慢な死があなたを包むだろう。
と。
親父と息子の関係って難しいものだ。
俺は息子の気持ちがわかる。
でも、死んでから後悔にさいなまれる気持ちも、残念ながら俺はよく知ってしまっている。
本当に死んだものが生きるなら、変わる気持ちもあるんじゃないか。
だが戻った時には俺の手に負えなくなっていた。
彼の毛布の上にナイフの柄が突き刺さっている。
「若!」
と駆け寄ってナイフを抜こうとする斉藤を
「触るな」
と叫んで制止する。
今は仮死状態なこともあり出血はほとんどないが、抜いたリ蘇生させた途端、大出血を起こすだろう。
前に出てそのナイフの位置を見た瞬間、わかった。
これは俺の手には負えない。
先ほどの発砲で手が痺れたままだし、片目になってから精密作業には自信がなくなっている。
奴に頼むしかない。
その時組長の横で携帯が鳴った。
取り出して耳に当てた側近が叫ぶ。
「BJ先生が見つかったそうです」
斉藤だけがそこに残り、後の面子でBJの元に急ぐ。
最後にちらりと振り返ると斉藤は男の手をそっと握リ、物言わぬ男に何かを話しかけていた。
ああ、俺はなんて驕ったことを。
彼はこうなることを憂いて俺を招いたはずなのに。
後はあの男に頼るしか術がない。
なんて卑小で、情けない、俺。
そこは広大すぎて訳がわからないほどの敷地の中の、さらにわかりにくい場所だった。
普段からリンチ部屋か何かに使われているのだろう。
なんともいえぬ、饐えた臭いがする。
部屋の中には今倒されたらしい男共がうめき声を上げていた。
その中に一段とひどい格好をした、ぼろぼろの状態の男がいた。
その姿を見た途端、先ほどまでの仕事に対する気持ちが吹っ飛ぶ。
表情を消して近づき、彼の状態を見、
「これは彼にオペをさせるのは無理ですな。大急ぎで他をあたってください」
と2、3の医師の名を挙げながら男の拘束をはずす。
そしてさりげなく上着を脱ぎ、彼をくるんで肩に背負った。
どんな神業を持つ男でも、こんな状態でメスを持つことはできない。
それなら彼に患者のことなど悟らせてはならなかった。
この男は這ってでもオペをしようとするだろうが、この状態では1人で立つことすらできずに時間切れになるのが落ちだ。
そしてこの緊張状態の中、オペを失敗したら確実な死が待っている。
わき腹から新たに血が噴き出したのがわかったが、倒れなかったので良し。
「私は、これで。この男は一応知り合いなので、連れて行きます。勿論ここを出たら、ここでのことはすべて忘れますよ。それが仕事の条件でしたからね」
と言い、1歩を踏み出す。
よし、歩ける。
何とか歩け。
今、俺の中に先ほどの二人のことはなかった。
俺達はあの息子を助けることができなくなった時点で無用の存在、いやそれどころかいわゆる「知りすぎた外部の人間」という立場だ。
死人に口なし。
男達が浮き足立っている今しか、俺達が生きて出られる隙はない。
外に出れば、生き延びる可能性が飛躍的に上がる。
テリトリーから出たものをわざわざ追ってバラすのは、なかなかリスクが高いものだから。
出口だと思う方向に歩き出したが
「待て」
と言う組長の言葉に足を止める。
周囲に緊張が走るのがわかった。
注がれる殺気を振り払うように振り向き、彼がゆっくり寄って来るのを待つ。
組長は俺の前に来るといきなり俺の脇をつかんだ。
喉の奥で苦鳴を押し殺し、静かにその目を覗き込む。
ここで目をそらしたらおしまいだとわかっていた。
俺1人ならそれでもいい。
だがこの男を殺すわけには行かない。
家族がいるし、何より俺と違い、この男は天才なのだ。
こんな所で野垂れ死にさせてはならない。
長くて短い時間の後、男は万力のような手を離した。
そして血で濡れた手のひらをしばらく眺めた後
「無礼をした。が、わしの気持ちも察してくれ」
と呟いた。
そこにいたのは苦悩に満ちた老いた男の姿だった。
次の瞬間
「車を出して先生方を丁重にお送りしろ」
と怒鳴った時にはそんな面影、夢のように消えていたけれど。
こうして俺達は何とか命を永らえた。
意識を失った男はぼろぼろのぐちゃぐちゃだったので、とりあえず風呂に突っ込み、患者用のストレッチャーに載せて病室に運ぶと、簡単に傷の手当をしてベッドに転がした。
それから自分の傷に止血パッドを貼って倒れそうになりながらシャワーを浴びる。
こんな姿を奴にさらすのは、俺の沽券に関わることだ。
何とか自室に戻り、ベッドの枕を整えながら、あの男は助かっただろうか、あの組はどうなるのだろうかと思ったが、長く考え続けることはできなかった。
結局俺は俺自身とその回りの事しか考えられないから。
とりあえず今の俺の仕事は、寝て回復すること。
それからの事はその後考えることにして、俺はまぶたが合わさるに任せた。
「旅の話」の下の方にあるシー関連の話の発端に当たる話。
この後使いのものが来て、口止め料を置いていきます。
その金を使い切ってしまいたくて、彼はピノコに「何か買ってやろう。それともどこかに行くか?」と聞くのでした。