99.9パーセントの死
その依頼人は第2期から第3期に移ろうかというところだった。
肝臓はパンパンに膨れかえっている。
今はまだ少しは食べられるが、第3期になった途端猛烈に嘔吐して水すら全く受け付けられなくなるのだという。
そして枯れ木のように痩せこけ、皮膚がぼろぼろはがれ、狂い死にするのだとか。
挨拶をして診察に入った途端、依頼人が
「ぐう」
とうめいた。
その瞬間口から内容物が噴水のように吹き出てくる。
とっさに目をかばったが、顔を含め、ほぼ全身に浴びた。
部屋の隅で見ていた家族が悲鳴を上げる。
それは第3期の始まりの合図だった。
すぐに着替え、シャツ姿で安楽死処置をしたが、断水のため夜になるまでシャワーを浴びられなかった。
それがこんな事態になるなんて。
日本に帰る前は何ともなかった。
帰りの飛行機を降りたときにだるさを感じたけれど、太平洋を渡るときには大概そうだから気にもとめなかった。
だが家に戻り、荷物を置いた途端、急に差し込みが来た。
トイレに駆け込む。
米のとぎ汁のような便を見たとき、俺は後頭部に血が逆流し、手足が氷のように冷えるのを感じた。
グマへの感染。
心が縮こまりそうになるのを耐えながら、必死に検査を繰り返す。
ただの赤痢であってほしい。
あの地域はまだ非衛生だからその可能性も皆無ではないし、コレラなどのほかの伝染病かもしれない。
そんなありもしない可能性にすがり、でもそんな病原体なんてこれっぽっちもないことに落ち込み、グマの文献を漁り、対症療法を試し、肝臓の水も取ってみた。
だが、だめなのだ。
朝になると一つの可能性を思いつき、夜にはそれが潰える繰り返し。
体はどんどんだるくなり、頭の回転も鈍くなっていく。
第2期の鬱血斑が日に日にくっきりし、腹がどんどん膨れていく。
取っても取っても水は出続け、きりがない。
そんなある日、家の電話が鳴った。
無視していると留守電になり
「兄さん、いないの? このごろ電話に出ないけど、留守なだけなの? 心配だから今度行きます。」
というユリの声。
いけない。
以前依頼人にもらった無人島を思い出し、荷造りすると家中のものを消毒する。
手ヅルを使ってダイナマイトを手に入れ、逃げるように島へ渡った。
部屋のベッドに倒れ込んで息を吐く。
何ですぐにこうしなかったんだろう。
今まで多くの人間をこの手で送ってきたのだ。
自分の番が来ただけというのに、何をじたばたしていたのか。
あんなに死にたい、戦友の後を追いたいと思っていたはずなのに、死ぬことがはっきりした途端、まだ生きたいと思うなんて。
それは俺が曲がりなりにも生きていたからだ。
生きて、日陰の商売であれ、誰かに必要とされる生活をしていたから。
依頼人の話を聞き、時に懺悔につきあい、時に恐怖やおびえに寄り添い、最期の時間をともにすることが、いつの間にか俺の生きる張りになっていたのだ。
どんなに下げずまれ、唾を吐きかけられても、俺は誰にも強制されずに自分のしたい、しなければならないと思うことをしてきた。
それが幸せでなくて何が幸せだというのだ。
滑稽な話だ。
俺はずっと自分のことを死にぞこないの生きた死骸だと思っていたのに。
人は失って初めてそれまでがどんなに幸せだったか気づくという。
戦場に行ったとき、俺はそれを悟ったつもりだった。
すべてをなくしてどん底をはいずっているつもりだった。
けれどそれはどん底なんかじゃなかったのだ。
俺は生きていたのだから。
取り返しがつかなくなってからそんなことに気づくなんて、俺はなんておろかなのだろう。
けれどここに来たからには、それもおしまい。
後は死を受け入れるしかないのだから、落ち着いて受け入れてみよう。
最期くらいは見苦しいことなく塵になりたい。
どうせなら俺の安楽死装置がどんな風に効いていくのか、じっくり味わいながら往こう。
それをレポートして誰かに伝えられないのは残念だけれど。
そうして死を受け入れる準備がほぼ整った頃、妹があいつを連れてきた。
お前さん、わかっているのか。
俺は生きている限り安楽死を続けることを。
このまま知らん振りして立ち去れば、俺のような人間と永久に縁が切れるのだ。
そうすれば天敵の安楽死医がいなくなって万々歳ではないか。
診察なんて、やめておけ。
どうせ俺は助からない。
静かに諭していられたのはほんの少しの間だけだった。
男が俺の診療鞄を引きずり出すのを見て、痛みもだるさも何もかもをかなぐり捨てて飛び起きる。
未練に思ったひとときがあったことなど忘れた。
俺一人ならいい。
ここで朽ちるのも、いっさいを無にするのも。
けれど、俺の病気がこの二人に感染したら。
地獄の苦しみにのたうち回る二人の姿が、そしてその後ろに彼らから感染した多くの人々の苦しむ姿が幻に見え、絶叫する。
うるさい。
やめろ。
俺は死に神だ。
聞く耳持たない。
早く帰れ。
早く。