序 『死への一時間』翌朝
やってしまった。
目が覚めたときの、それが最初の感想だった。
本当に信じられない。
つい昨日まで避けられるならなるべく避けたいと思い続けていた男が、俺の頭を抱え込むようにして寝ている。
昨晩、同衾したのだ。
単なる雑魚寝じゃない。
お互い素っ裸なのがその証拠だ。
昨日の俺は、なんて趣味が悪かったのだろう。
こいつが女だったとしても、一昨日までの俺なら世界で二人きりになっても寝るのはごめん、と思うような男だ。
そう、男。
別に女に困っていた訳でもないのに、何を血迷ってこいつ相手に、と思う。
うーん。
やっぱり血迷っていたんだな。
思ったより酔ってもいたんだな。
俺もこいつもそうだったんだな。
ついでに昨日は心臓がひっくり返るような思いをしたし、人間パニックに陥ったときは頓狂な行いをするもんだ。
だから…。
図らずも昨晩のことを思い出す。
挑発的な物言い。
態度。
誘うのに慣れているんだと思った。
なのに女のようにすんなりは入れなかった。
わざと力を込めて俺をからかっているのかと思ったが、本当に慣れていないのだと途中から気づいた。
気持ちに追いつけない肉体をあやし、駄々をこねる体を少しずつたらしこみながら俺を押し入れ、ぴったりすがりつく軟肉を揺すり、切れ切れの音を出す口を覆い、にじむ涙を舌先に乗せた。
今も昨夜を思わせる空気が、男の体から匂ってくる。
血と消毒液の匂いの中に、男本来の匂いがする。
こんなにぴったり抱え込まれているから。
普段はこの男の間合いに入らないから気づかなかったのだろうか。
益体もない事を考えているうち、男の呼吸が少々乱れた。
あ、起きる。
そう思ううちに腕の力が増し、そのついでに伸びをすると男はぽっかりと目を開けた。
視線が合う。
なんと言えばいいかわからず沈黙を守っていると
「わ」
と言って男が飛び起きようとした。
が、その左手は俺の首の下だ。
言いたくないが、今まで両手でしっかり抱え込まれていたから。
それなのに
「重い、どけ」
って振りほどくのはひどいんじゃないか?
「お前さんが今まで離してくれなかったんだぜ」
と言うと、あれ、頬に赤みが差した。
顔はいつもどおり俺を睨みつけているのに。
その後、奴は時計を見て
「しまった」
と叫び、猛烈な勢いで着替え始めた。
何でも昨日の予定をすっぽかしたため、今日は朝から行くと患者に約束していたらしい。
俺も尻を叩かれるようにして着替える羽目になる。
ドアを出てしまえば、そこにいるのはいつもの通りのブラック・ジャック。
身のこなしに一分の隙なく、どんな裏道でも一定の速度で歩き回れるタイプの男だ。
多分、俺と同じくらい。
暴けたと感じた時間は過ぎ去ってしまった。
それを少し寂しく思うが、もう二度とこんな機会もないだろう。
突然の雷雨に遭ったようなものだ。
これは駆け込んだ軒先で会ったつかの間の幻。
「今度は荷物に気をつけろよ」
と最後に兄貴風を吹かせた男の面を見て、センチになった己を激しく反省する。
あんなの、本当に気の迷いだ。
まったく俺の本意じゃない。