最後に残るもの

 

 

最悪な気分だった。

俺のする安楽死というものは、依頼人以外に感謝されることはあまりない。

その依頼人もたいていは安楽死を受ける本人だから、大概の場合ののしられたり石もて追われるようなことになりがちで、そういう事には慣れているつもりだった。

奴に患者を横取りされたことは何度もある。

その時には敗北感を覚えることもあったが、それでもその事によって依頼人が助かり、生きられるようになるのならそれもいい、と思っていた。つもりだった。

だが、こんなこと。

 

今回の依頼人は病院の院長だった。

6つ子が生まれたが五体満足な5人は虚弱で死に掛け、最後の一人はひどい畸形で生きていても仕方がない。

だからその6人目をそっと安楽死させて欲しい、という依頼だった。

生まれたばかりの子供を死なせることなんて、わけはない。

ほんのちょっと寒いところに置いたり、栄養を切らせば簡単に死んでしまうような子供をわざわざ安楽死させてくれというのは、つまり自分の手を汚したくないだけ。

そうわかっていても、そんな死なせ方をさせるよりは俺の手で安らかにしたほうが赤ん坊にもいいだろうと思って引き受けた仕事だった。

 

飛行機に乗っている時、偶然同乗していた奴に絡まれた。

ほかに乗客のいる場所で人殺しだの安楽死だの言われるのは気が重いのに奴はそんなことお構いなしで、それどころか俺は奴にはめられた。

税関に密告されたのだ。

 

俺は留置所に拘束されて何日も尋問を受け続けた。

何たる事か、俺は爆弾魔だと誤解されているらしい。

安楽死装置を持っていたことが災いしたのだ。

本来の用途を言うことはできない。

なぜ持っているかと問われても答えることができない。

その後ろ暗い気持ちを勘ぐられ、尋問は連日続き、俺は精神的にかなり追い詰められた。

だがそれにも増してつらかったのは、患者に会いに行けなかった事だ。

新聞を買うことはできたので、その様子を逐一とは行かないまでも把握することはできた。

生きていくには無理のありすぎる重度の畸形児が苦しい生を刻んでいかないといけないなんて。

長く生きていれば親の傷も深くなっていく。

早く楽にしてやりたいのにできないもどかしさ。

それでも拘置期限が切れるまで、中に入っているしかなかった。

 

やっと釈放されて大急ぎで病院に行き、依頼者の院長に会うと、俺はお払い箱になっていた。

 

正直この院長にだけはこんなこと、言われたくなかった。

依頼者に言を翻されることは正直結構ある。

どんなに死んだほうがいいと思っても、人には未練があるものだから。

そういうのはいい。

それはまだその人にとっての時が来ていないということだからだ。

だが、今回の依頼は本人からのものではなかった。

対象の赤ん坊の生死を勝手に決めておいて後になってからこうか。

 

この男は、もしこの赤ん坊が畸形のままだったら、本当に同じことを言っただろうか。

外の人間は、その畸形の赤ん坊を見たとき、今と同じようにがんばれと言っただろうか。

本当にみんな、この子の為には安らかな死を与えたほうがいいと思わずにいられただろうか。

 

いや、終わったこと。

現実にはあいつがオペで五体満足にして、みんな万々歳なんだ。

道化の俺以外。

 

逃げるように病院を出、当てもなく歩き出す。

これからどうしようか。

幸い、まだホテルすら取っていない。

すぐに飛行機のチケットが取れるかはわからないが、このまま飛行場に行ってしまおうか。

それとも電車のほうが確実だろうか。

 

そんなことを考えていたので、奴に気づいたのは声をかけられてからだった。

今一番聞きたくない声、一番見たくない顔。

無視して立ち去ろうとしたが、売り言葉に買い言葉で、いつの間にか奴の部屋に通されていた。

「座れよ」と言われたが、そんな気にはなれない。

荷物だけは入り口近くに置いたが上着までは取る気になれず、壁際に立っていたが、奴はお構いなしに寛いだ格好になり「1杯飲むか」と言ってきた。

首を振る俺ににやりとしながら「言いたいことがありそうだな」と言う。

もちろん言いたい事はたくさんあった。

謀られた苦情、尋問のつらさ。

だが一番に聞きたかったのはあの赤ん坊だ。

 

「何であんなオペをする。いくら生命力が強いと言ったってあの赤ん坊は1ヶ月目の胎児そのものの形だったというじゃないか。脳だって発達していないだろう。そんな未熟な脳でどうやって生きていくというんだ。大体・・・」

そこまで言ってすうっと頭の中が冷える心地がした。

まさか。

 

「当然の結論に至ったか。そう、あの赤ん坊の脳も死んだ兄弟のものだ。生命力は本当に強靭だったが、それ以外は内臓も手足も脳もまったくだめだった。俺は6人目を改造したんじゃない。6人合わせて1人分の人間を作ったのさ」

そう言ったやつの顔は、いつも見慣れた俺に青臭い説教をたれる人間の顔ではなかった。

まるで。

 

「何だお前。まるで悪魔を見るような顔をしているぞ。死に神のお前が、威勢がないな。」

「お前、いったい何を」

「時たまだが、俺は限界を試したくなる。自分の限界を。自分の持てるあらゆる技術を使ってみたくなるんだ。たとえば人間を鳥にしたり、馬と人間の脳を取り替えたり、畸形膿腫を人間に仕立てたり。フフフ、そんな顔するなよ。俺が悪魔とののしられていることはお前もよく知っているだろう」

無造作に手が近づいてくるのに、認識できなかった。

髪をつかまれ、引っ張られて痛みに前のめりになったところを半ば強引に口付けられた。

混乱する。こいつは誰だ。

これがいつも俺に命の尊さを説く人間か。

 

心労に次ぐ心労で俺は弱っていたのだろうか。

それとも今まで奴が俺には見せようとしなかった側面を急激に見せられて悪酔いしてしまったのか。

そんなに強く髪を握られているわけではないし、本当に嫌なら髪の一房犠牲にしても振り切って逃げればいい。

なのに。

 

やっと口付けを解かれた時思わず逃げ腰になり、口元を押さえて1、2歩後退したところで背中に壁が当たった。

腕に奴の手がかかる。

ほんの軽い手。

なのにまるで悪い夢の中のように体が動かない。

幽霊に触られたように硬直してじっとその手を見、それから腕をたどって奴の顔に視線が移動する。

「観念しろ」

とその腕を引かれたとき、なぜ振り払うことができなかったのか。

 

抵抗なんてできる精神状態ではなかった。

言われれば自分から最後まで脱いだかもしれない。

だが奴はそんなこと言わずにベッドまでついてきた俺の上着を乱暴にはぐとネクタイを抜き取り、放り投げ、ついそれを目で追って体ががら空きになった俺を押し倒した。

ワイシャツのボタンをはずすのももどかしいのか、ズボンの前を緩めて裾を引きずり出す。

そのままたくし上げて胸板に噛り付かれた。

 

急な痛みに思わずかすれた悲鳴が漏れる。

恐ろしい。

この男は誰だ。

こいつはこんな顔を黒いコートにみんな隠して歩いているのか。

 

「あ」

悪魔、と叫びそうになった言葉を飲み込む。

俺は、俺にだけは言う資格のない言葉だ。

俺は人の生死をもてあそぶこいつをなじれない。

人から見れば、俺こそがもてあそんでいるのだろう。

例えば、あの院長にとっては。

 

しばらくいろいろ触られたりかじられたりしたが、鳥肌が立つだけだった。

しばらくしてから乱暴にズボンの中に手を入れられたが、反応どころではない。

ち、と舌打ちをする音がして握りこまれ、潰される、と恐怖に縮こまったが、いつまでたっても力が入らない。

恐る恐る目を開けると存外近いところに顔があり、あわてて目をつぶって視界から奴の顔を締め出そう、心から奴の存在を塗りつぶそうとしていたら

「そんなに俺が怖いのか」

と言われた。

「死に神のお前でも俺が怖いか。鳥肌が立つほど、震えが止まらないほど。」

恐怖をこらえて目を開くと、ぎらぎらとした目が俺を見つめていた。

 

気ちがいだ、と思った。

逃げろ、と体中の筋肉が俺を催促した。

だが俺は動けなかった。

逃げ切れなかったときの報復も怖かったが、俺をこの場にとどめた一番の原因は、皮肉なことにこの男の狂気、それ自体だった。

 

軍隊時代の俺が苦しむもの、それを望むものに安楽死をせずにいられなかったように、この男はオペをせずにいられないのだ。

そのことによって患者自身が幸せになれるかなど関係ないのだ。

衝動なのだ。

狂気じみた。

 

多分、普段は厳重に隠しているものが、何かの拍子に出てしまうのだ。

俺が父を殺さずにいられなかったように。

こいつは多分、俺の患者でなければこんな風にたがが外れはしなかった。

だから今、俺にこうすることで自らの狂気を収めようとしているのではないだろうか。

 

憑き物を落とす。

それだけのことだ。

俺の狂気に中ってしまったから、責任取れと言っているだけ。

 

正直、こういうことはしたくなかった。

俺の嗜好はまったくのノーマルで、男と寝ることなんて考えたこともなかった。

軍にいた頃には何度かそういう目に遭いそうになったが、それがどんな相手でもすべてうまく逃げてきた。

なのにその時の俺は強引な口付けに合わせようとし、逃げようとする体を抑え、愛撫とも言えないような乱暴な手に身を任せた。

暴力じみた恐ろしさより、この天才の心が暴走するのではないかと、そのことが恐ろしくてならなかった。

この男の腕なら、希代の犯罪者になることも容易だ。

 

俺の抵抗が消えたのに気づくと、奴の動きが変わった。

乱暴な動きが一転して、人体の反応を知り尽くした者のそれに変わる。

こいつは確かに天才だ。

人の体の機微を指先で知ることが出来るのだ。

どのツボを探れば激痛にうめくか、どの一点に触れれば快感にはねるかを指先自体が知っている。

声のたがが外れたのは快感によってだった。

散々猫になぶられるねずみの思いをさせられ、のどがかれるような思いをした。

奴にしがみついてすすり泣きながら、絶対に後悔するだろうと頭の隅で考えていた。

 

やるせなくて仕方なかった。

俺をむさぼるこいつが。

こいつをなじれない俺が。

これ以上考えていられなくて、こんなことに耽溺する俺たちが。

でもその時にはそれ以外のことはできなかった。

乱暴な行為だけが俺を救ってくれるような気がして、嵐を避ける気にもならなかった。

 

 

 

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