最後に残るもの−B

 

 

あいつが憎くて仕方なかった。

あいつに会いさえしなければあの6つ子のことなど知らずにすんだ。

奴の患者でさえなければこんなオペ、しなかったのに。

こんな風に後になって思い惑う必要、なかったのに。

 

本当は自業自得とわかっていた。

だがそのときの俺は、どうしても誰かのせいにしたかったのだ。

 

オペ自体に後悔があるわけではない。

俺の仕事は完璧だった。

こういう難しいオペは俺を高揚させる。

自分の頭の中の青写真を完璧に表現できなければ、患者は死んでしまう。

血管の一つ一つ、神経の一つ一つをつなげていく作業。

それは根気と時間と、自分自身への挑戦だ。

特に今回の患者は新生児で、小さい分難易度が上がる。

それがうまくいった時の高揚と酩酊感。

 

だが強い薬が切れた時のように、高揚が途切れた時、俺は自問自答を始める。

本当にオペは成功したんだろうか。

後遺症はないのだろうか。

今は大丈夫に見えても、1年後、5年後、10年後、30年後。

俺は患者の生に責任が持てるのだろうか。

もしかして俺は、人が踏み入ってはいけないところに土足で入っていないだろうか。

 

正直に言うと、以前の俺にとってオペに善悪なんてなかった。

俺にとっての患者は、治せるか、治せないか。

相手は誰でもかまわない。

どんな事情かも関係ない。

その症状を俺が治せるか治せないか。

後は金。

俺の腕が欲しいなら、大金だって積むだろう。

復讐の為には大金がいる。

だがそれ以上に俺が大金を吹っかけるのは、他の医師が出来るようなオペはしたくなかったからだ。

俺は自分の腕に自信を持っていた。

そして今以上に研鑽を積み、世界一の医師に、何でも治せる医師になりたかった。

 

もしかしたら、大金を要求するのは俺にそれだけの価値があると思いたかっただけかもしれないが。

たまにする慈善事業は気まぐれのようなもの。

野良猫に弁当の残りを放り投げるようなもの。

だから俺は黒医者だったし、俺もそのことに満足していた。

自分の技量を上げ、神の手に近づきたい。

恩師に、驕るなとあれほど言われていたのに。

 

最初に会った時、俺は奴のことをなんとも思っていなかった。

ただの殺し屋だと。

安楽死に手を染める奴など、自分の腕の悪さを棚に上げるか、殺人パラノイアだろうくらいに思っていた。

だが上層部が事件の揉み消しを決定し、被害者をも揉み消そうとした時、俺に脱出用のボートの存在を教えたのはあいつだった。

俺がオペに忙殺されている間、あいつは施設を探りまわり、こっそり万一の備えをしていた。

その位置を俺にささやき、聞き返す俺に

「ただの情報だ」

とだけ言って去っていったあいつ。

罠かもしれない。

でも俺は奴に賭けた。

患者をそっと連れ出すと、そのボートには水と食料といくばくかの金が積んであった。

どうやって調べたのか、現在位置に丸をつけた地図までが置いてあったのだ。

 

彼らがどうなったかは俺は知らない。

奴がどんなことをしたのか俺は知らない。

だが俺に追っ手はかからなかった。

顔をあわせる度に

「はかない努力だ」

と言っていたあいつは、それでも俺に賭けていたのかもしれない。

 

本当は患者の死ばかりを望んでいるわけじゃない。

では何故。

それから奴に興味を持った。

奴の言い分は

「直ることこそがその患者にとっての幸福なのか」

ということ。

奴は何度も問いかけてきた。

 

生きていれば苦労もあるかもしれない。

でも生きていなければ何も始まらない。

俺はそう思う。

生きていさえすれば、道は開ける。

何かが始まる。

だが奴は

「それは本当に正しいのか」

と態度で表す。

そして俺は不意に打ちのめされる。

 

奴だけが正しいわけではない。

それは俺自身が体で知っている。

だが、俺は本当に正しいのか。

俺の手が不幸を生み出しているということは、本当にないのか。

神でもない一介の人間が、命をもてあそんではいないのか。

 

歩けない少女に翼を与えたとき、彼女は人間社会にいられなくなり、鳥になることを選んだ。

だが彼女がどんなに鳥らしく振舞っても、彼女と同じ鳥は一匹もいない。

すっと一人きりのままだ。

 

人の頭に馬の脳を組み入れると、彼は復讐を果たした後、馬の恋人と共に去った。

あの2頭はその後どうなったのか。

 

何十年も眠ったままの少年を起こしたときの衝撃。

オペ自体が完璧だからと言って何になる。

俺は本当はこの腕を駆使することだけを考えているのではないか。

直ることは、本当に患者の幸せに繋がっているのか。

 

奴に会うたび、奴と話すたびに思い知る。

俺は切るだけの人間だ。

患者のことなど考えていない。

ただこの手を使いたい。

俺ならできると言うなら、どんなタブーでも犯す。

俺にだけ生かせるというなら生かしたい。

人間は死んではだめだ。

芋虫のような姿でも、一生口がきけなくても、生きていなければ。

それが幸せかなんて関係ない、俺のために生きていてくれ。

 

自分の中の狂気を知るたび苦しくて、でも自虐的に奴を追った。

奴になじられたい、自分の欠陥を知りたい。

奴の暗い目のわけを知りたい、心の闇を知りたい。

世間的には俺よりもずっと認知できない、闇の中を這いずるような存在のはずなのに、奴からは何かしら清らかな匂いがした。

今までに依頼者の家族から何度もののしられる姿を見ている。

そんな時の奴は冷酷な死に神そのものなのに、後で家族が自分を責めないようにわざとそうしているようにも見えた。

 

奴には自分の闇を見せたくなくて、いつも偽善者面をして追った。

誰に後ろ指を差されても痛くも痒くもないのに、奴にだけは見せたくなかった。

でも、とうとう俺はやってしまった。

6つ子のオペ。

5人は今にも死にそうで、元気な1人は重度の畸形。

その子は妊娠1ヶ月の胎児がそのまま大きくなっていた。

院長の依頼は最後の一人を殺してほしいというものだったが、俺はその子を見た途端、この子の改造を思いついていた。

 

手を、足を、内臓を、顔を、そして脳を。

彼の生への執着は、どこに宿るのか。

脳か、心臓か、それとも他のどこかなのか。

改造に改造を重ね、元の子の物等殆ど残らなかった。

本当に彼は1ヶ月の胎児そのもので、他の兄弟の体とどんどん入れ替わっていった。

残ったのは、多分その執着心だけ。

では、その執着心はどこに宿っていたのか。

 

オペの間は無我夢中で、そんなこと考えもしなかった。

だが、あの酩酊感が切れた今、俺はいつもの闇の中だった。

そんな時、奴の姿を見つけた。

打ちひしがれたような、あいつ。

俺はあいつに話しかけた。

俺を避けようとするあいつを見たらいつもの自虐の虫がうずき、宿に誘った。

 

部屋に入っても椅子にも座らず、酒も断るあいつ。

上着を脱ぎながら

「言いたいことがありそうだな」

と聞くと、堰を切ったように言い出した。

「あの子は1ヶ月の胎児の姿だったと言うじゃないか。脳だって育っていないだろう。なのにどうして」

そこまで言って、いつも悪い顔色が一層悪くなった。

本当に蒼白と言っていい顔。

 

お前は俺にどんな幻想を抱いていた。

俺はこんな人間なんだ。

悪魔とののしられる噂を知らなかったのか。

 

奴の方が背が高いので、髪を引っ張ってかがませ、キスをした。

なぜだろう、呆然とする奴を見た時、急に貶めてやりたくなった。

それとも宿に誘った時から俺はそのつもりだったのだろうか。

 

逃げ腰になった男に1歩近づいて、腕を取った。

奴は呆然と俺の手を見、そこから腕、肩とたどって俺の顔を見た。

そっと腕を引くと、おぼつかなげに、しかしふらふらとついてきた。

俺の毒に当たったか。

 

反撃して欲しくてわざと乱暴に扱ったが、奴は縮こまっているだけだった。

反応どころか、体温が低くなっている。

お前だってそんな稼業をしているんだ。

さまざまな闇を見ているだろう。

俺のこのざまがそんなにショックか。

それほど俺が怖いか。

動けなくなるほど、恐怖に震えるほど。

 

悔しくて悲しくて、でもそれを覆い隠すほどにどす黒い感情が心の中にわきあがっていく。

もしかして、こいつなら俺をわかってくれるのではないかと、心の中で望んでいた。

あの時初対面の俺に賭けてくれたように。

生と死の狭間にある同じような闇を見つめているだろう、こいつだけはと。

 

もういい。

俺は1人で生きていく。

このコートの中に全ての感情を隠して。

神とも悪魔とも言われるこの腕一つだけを信じて。

 

ベッドを降りようとした時、奴の腕が俺の肩にかかっているのに気づいた。

必死な顔で俺を見つめている奴がいた。

さっきまで目を固く閉じて、俺の事を見ようともしなかったのに。

口づけすると、やはりこわばってはいたが、俺に合わせて舌を絡めてきた。

体が震えているのに。

 

こいつは本当に優しい奴なのかもしれない。

もしくはとんでもないお人よし。

俺の何かに同情したのか。

それとも恐怖のあまりおかしくなってしまったか。

でも俺はそれにつけこんでやる。

同情の気持ちだけでも、体だけでもいい。

俺をこいつに刻み込みたい。

どんなものでもいい。

 

抵抗がなくなったので、奴の急所を捜しにかかる。

触診には自信があった。

人間の体の構造は知り尽くしている。

急所に力を込めれば死ぬが、そこをぎりぎりの力加減でなぞると人の体は混乱する。

人間の触覚には本来くすぐったいというものはない。

あそこは皆痛覚なのに、力加減によってくすぐったく感じる。

気持ちいいというのも同じ、力の加減。

相手に急所を握られていると言う恐怖をスリルに変えているのだ。

引き結ばれた口がほどけて、吐息と一緒に声が出るまでに時間はかからなかった。

聞こえるかどうかというほどかすかな、でも明らかに興奮している声。

恐怖の中に情欲の混ざる目。

 

俺だけ見てくれ。今だけでいいから。

俺を肯定してくれ。嘘でいいから。

 

奴が抵抗しないのをいいことに、やりたい放題をした。

あいつの気持ちもプライドも何にも考えずに。

入れたとき、こいつはもしかして男を知らないんじゃないかと思った。

それなのに散々蹂躙した。

身悶える奴を笑いさえした。

 

正気に戻った途端、俺はまた間違いをしたのに気づいた。

こんなこと、するつもりじゃなかった。

するにしても、こんな風にするつもりじゃなかった。

奴のプライドを傷つけるようなこんなことしてしまって、もうこいつは俺を見てくれない。

冷たい目で見られるのが、なじられるのが、それどころかもう無視して目もくれないかもしれないと思うと恐ろしくて、自分を引き抜くとあいつに背中を向けて横になった。

しばらくして奴が起きる気配がしたがどうしても振り向けず、かたくなに目をつぶる。

 

こんなことでたがを外してしまうなんて。

ただ距離を縮めたかったのだ。

やつと俺の距離を。

なのに俺は。

 

どんなに悔やんでも後の祭りで、それでもせめて謝らなくては、と決心して飛び起きたとき、部屋のドアの閉じる音がした。

 

 

今はネガティブな思考にはまっていますが、彼も普段はもっと自分の仕事に自信と誇りを持っていると思います。

ご感想、ご批判をいただければと思います。